相澤謙一郎ブログ「22世紀にのこる ものつくりを志して!」

相澤謙一郎の理念  一、無から有を生みだす。 一、顧客の笑顔=商品の付加価値=利益 一、世のため人のためになる事をする。それ以外はしない。 一、変化を恐れない改革者であり続ける。 一、従業員はもとより、家族、親族、近隣住民を大切にし、彼等から信頼される企業となり、人となる。

2007年03月

壮行会を開いて頂きました!

この度、壮行会を開いて頂き、20数名の方に送って頂きました。他の営業所の方も数多く参加頂き、恐縮です。改めて御礼申し上げます。

入社以来、異動に次ぐ異動を繰り返してきましたが、壮行会を開いて頂いたのは本当に本当に久しぶり。照れくさいのでちょっと苦手なのですが、忙しい中、駆けつけて頂いた皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

皆さんの期待に沿えるよう「22世紀に残る物作り」を目指して、精一杯努力します。ありがとうございました!

美容クリニック情報検索サイト「Be YOU(ビーユー)」新設のお知らせ

Be YOU株式会社ぱどは、美容クリニック情報検索Q&Aサイト『Be YOU(ビーユー)』を3月29日(木)に新設いたしましたので、お知らせいたします。

詳細は、下記URLから参照下さい。
<2007.03.29 美容クリニック情報検索サイト「BeYOU(ビーユー)」(http://www.b-u.jp/)新設のお知らせ>
http://www.pado.co.jp/pado/pdf/070329beyou.pdf
[PDFファイル]

相澤謙一郎の起業史 10[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 9[19歳 はじめての起業]の続きです。

関東大会出場の道を絶たれた我がチームは、現役最後の大会、インターハイ予選に向け始動します。

3年間戦い続けて私達は、十分に自分達の発揮できるポテンシャルを理解していたと思います。ましてや強豪高校のほとんどの選手は、中学時代から見知った連中です。最後の大会は、試合前からトーナメント表を見て、「この日が最後になるかな」と思ってしまったものです。

一方、私はいよいよ追い詰められました。ハンドボールでの進学の可能性は、絶望的となり、成績で勝負するしかありません。ハンドボールも勉学も中途半端で終わり進学できなかったら、どうにもならないなと考えていました。三浦半島から出る事もなく、一横須賀人として人生を全うするのは当時の私には絶望的人生だったからです。(今は一横須賀人としての生き方をとても尊重しています。)


最後の大会は、終始安定したプレーをする事ができました。そして全ての試合で先発出場させてもらいました。と言うのも、私は怪我や様々な問題からベンチスタートがかなり多かったのです。

結果は、神奈川県ベスト4の座をY高校と争い敗れました。

この試合、怪我のため出場できなかった主将をフリースロー(サッカーで言うPK)で出場させようとチーム一丸になれた気がしています。常に勝つ事を義務付けられたきましたが、やっぱり団体スポーツはチームワークなくして成り立たないものです。その感覚をはじめて最後の試合で知りました。時、既に遅しというものです。
ハンドボールをはじめよう

血と汗と涙のハンドボール部生活の終わった瞬間でした。

相当量の血が横須賀学院のグランドには染み込んでいます。気合や根性が重要視されるため、傷だらけの身体で思い切りグランドに倒れこみながらシュートを放ち続けました。

汗の量は想像を絶します。飲む水の量が尋常ではありませんでした。部室の臭いも強烈です。

涙もあります。悔しさや痛さは勿論の事、極限を超えると涙が流れます。倒れながら泣いたり、震えながら泣いたり、ただ涙が止まらなかったり、不思議な光景を目の当たりにしたものです。

地獄のような日々から開放された喜びはひとしおでしたが、反面、ハンドボーラーから普通の高校生に戻った僕らは無力でした。

実に。中途半端な坊主頭の色黒ですばしっこい少年達です。


不思議なものであれだけ嫌いだった練習の日々も、あれだけの練習をやってきた俺が大学受験などに負けるものかと、理不尽な理論で進学に向け走り始めます。

積極人材登用中

今年は積極的に人材登用しております。

ネット広告、人づての紹介含めこの二ヶ月で12名採用させて頂きました。これも縁あっての事、旧来のメンバーと持てる力を結集して「22世紀に残る物作り」を念頭に、息の長いメディアを育てていく所存です。

今まで採用には慎重でしたが、採用して分かる事、変わる事の多い事を学びました。これからも積極的に熱意を持った人材を登用し、リーダーを育成していきたいと考えております。

奇病再び

週末より食あたり中です。3日目ににて改善の兆しがあり、少し安心しました。口内炎も併発しているので、お粥が主食です。

健全な思考は心身の健康から、と言ってきているだけに情けないです。健康回復せねば!健康第一です!

[奇病奇病奇病]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50924218.html

相澤謙一郎の起業史 9[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 8[19歳 はじめての起業]の続きです。

神奈川選抜の道を絶たれ一週間ふて腐れた後の私は、気持ちを切り替えて熱心に練習に取り組もうと思いました。そもそも選抜に選出される実力がないのに、逆恨みするのが今思えば若過ぎます。

一つ、ハンドボールというチームワークや協調性が必要な球技においてあまりにも自己中心的なプレーが多く、献身的なプレーに欠ける。また神奈川県を代表するにふさわしい人格でない。

一つ、基礎体力に欠け、また改善の努力が足りないので、捻挫や間接の炎症といった故障が多く、安定性がない。

一つ、好不調の波が激しく、安定感に欠く。

などなど実力が無いのです。


しかし私にはまだまだチャンスが残されています。関東大会予選、インターハイ予選という最後の大会が待ち受けています。


我々は、関東大会予選のブロック決勝にまで駒を進めました。しかしチームは今ひとつ、まとまりに欠けていました。大会中にも毎度ながらつまらない事件を起し、頭は丸坊主です。

とは言えトーナメント戦ですから、絶対に負けられません。自分の心持を多少、コントロールする事を憶えてきた私は安定的なプレーを心がけていました。しかし接戦の中、試合終了間際にファールを犯し、フリースロー(サッカーで言う所のPK)を与えた挙句、レッドカードで退場(2分間)になってしまいました。

背丈の低いポストプレーヤーの体を後ろから押さえ付けた事によりファールを取られたのです。これには私自身、驚愕しました。体ではなくボールに対して、手を出していたのです。背丈の低いプレーヤーへのプレッシャーはファールに取られがちな事を理解しているので、そう見られないよう体に触れないようボールにプレッシャーをかけていたのです。

と言っても後の始末。スポーツにとって審判は絶対的存在です。

厳しい表情で私に迫る審判の黒く焼けた顔と、退場を示す彼の二本指を忘れる事はないでしょう。我々はこのファールによるフリースローで逆転され、敗北するのです。

敗北の瞬間、私は退場処分によりフィールド外に出されていました。試合終了のホイッスルが鳴ると、思い切り地面を殴りつけました。少し泣いたかもしれません。頭がぶっ飛ぶほど悔しい思いをしました。青春の一ページ以外の何者でもありません。

この悔しさは人生最大級かもしれません。恥ずかしながら二十台中盤まで、T校監督だったあの審判に退場を告げられる夢を見てうなされていました。なぜか実家の風呂に入っている時、思い出し悔しがりをしてました。

結構、しつこい男ですね。

相澤謙一郎の起業史 8[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 7[19歳 はじめての起業]の続きです。

日々を小さなエピソードで散らかしながら、気が付けば高校3年です。ハンドボール部副主将、生徒会中央執行委員、美化委員などを兼任していました。

私は整理整頓には煩い方です。部下にも「見つからない書類を捜す時間はコストです。コスト削減のため整理整頓を日々心がけて下さい。」と繰り返し伝えています。

高校生の頃は、整理整頓が好きだったから美化委員になったつもりはありません。普段、あまり交流の無い生徒への好奇心や、厳しい部活を会合の時など30分程度公式に休めるといった事が目的です。生徒会に関しても、中学からの友人が生徒会長に就任したので、ちょっとしたノリで加わりました。

生徒会や美化委員はほとんど仕事をした記憶がありません。今思えば真面目に取り組んでいる方に対して、失礼極まりありません。今では社会人ですから、こういう態度で仕事に臨む事は許されませんし、そのような方には勇気を持って忠告したいと思います。


高校三年といば進学校の生徒なら、すわ受験と勉強に忙しい頃なのでしょう。しかし私にはハンドボールがあります。中学・高校の集大成として全国大会に出場する事を目標としていました。全国大会に出場すると、大学進学のレセプション(スポーツ推薦での試験)でも箔が付きますし、成績によってはレセプション無しで入学できる場合もあるのです。この頃の私は、自分の事しか考えていません。


全国大会に出場するためには、神奈川県大会で優勝するか、神奈川県選抜メンバーによって構成されるインターハイ出場に向け、神奈川県選抜になる事です。


まず神奈川選抜の道が絶たれました。人生最大の落胆です。


中学生の頃から強烈に憧れていた存在が、神奈川選抜でした。


同じグランドで見ていた先輩が選抜の練習に参加する姿に強い憧れを持ち、高校入学後も身近な先輩が選抜から大学進学する姿を見ていましたので、「絶対、俺も!」と思い込んでいたのです。

この時は夢遊病患者さながら、学校に行きたくないのでダラダラ歩くものですから毎日のような遅刻するは、授業はさぼる、学校は抜け出す、仮病をつかって部活は休むといった始末です。「取り返しのつかない事になってしまった。」「人生は終わりだ。」など大袈裟にネガティブな思考に囚われ、一週間ほどふて腐りました。

ふて腐れた男のくだらなさを身をもって知りました。

そして人生最大の恐怖体験を告白します。

強豪高校でもあった我が母校からは三人の選抜メンバーが選出されました。これは監督推薦によるものです。恐怖体験とは、まずは監督を憎んだ事、そして仲間を妬んだ事です。

一週間、憎み、妬みに囚われた私は、その思考を激しく後悔します。そして二度と憎み、妬みといった感情を持たないと決めたのです。

相澤謙一郎の起業史 7[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 6[19歳 はじめての起業]の続きです。

私は新入社員や部下に、京セラ稲盛名誉会長の仰る考え方の大切さを繰り返し伝えています。しかし高校時代の私の考え方は、大きくマイナスに振れていました。

[中途入社研修]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50697406.html

へそ曲がりのひねくれ者です。

私は高圧的な態度や、上からものを言うような態度に生理的な嫌悪感を激しく抱いていました。年の上下や状況も考えず、そういう人には徹底的に反発するのです。

ある日、某強豪高校の不良ハンドボーラーに練習試合中に因縁を付けられました。不良にかこつけて人を脅迫しようとする態度は断じて許せません。スポーツマンとしてあるまじき行為です。私は接触プレイ中に、マテラッツィさながらの侮辱発言で対抗したのです。無論、私もスポーツマン失格です。

不良少年には導火線がありません。彼は試合の事も忘れ、私に殴りかかってきました。

このようなトラブルは実際、何度かありました。私はトラブルを回避する自信があった事も事実です。実戦空手や授業での柔道の経験もありますし、駆け足と持久力には相当な自信がありました。つまり逃げるが勝ちという寸法です。

この不良少年に対しても、私は全力疾走で対抗です。あえなく彼は私にジダンさながらの一撃を加える事なく、審判やら顧問やらに取り押さえられました。※一流(ジダン)と素人(不良少年)の差ですね。

完全勝利!

と言いたいところですが、不良少年の執念深さを皆さん、ご存知でしょうか。報復するまで彼らは諦めません。報復が報復を呼び、恨みが恨みを生む。生産性の無い話ですが、これは人間の性なのかもしれません。

彼らはチーム一丸となって復讐にやってきました。丁度、茨城での強化合宿中でしたから、彼らは私達が激しい練習に疲れ果て、眠りこけている頃合を見計らい襲ってきたのです。

この夜襲には驚きました。

一番の驚きは、朝起きるまでこの夜襲事件に私自身、全く気が付かなかった事です。私は朝起きると、弁当の生ゴミなどが散乱しているので、後輩を叱ったのですが、まさか私が原因で夜襲を受けていたとは思いません。事実を聞いて、笑い転げました。

合宿は続きますが、それ以降、目立った報復攻撃はありませんでした。もしかしたら、彼らはちょっとした優越感に浸っていたのかもしれません。「俺はお前らが奇襲した時寝てて、朝起きるまで知らなかったぞ。痛くも痒くもないぞ。」と言う意欲は私に全くありません。結構、さっぱりした性格なのかもしれません。


私の十代は、こういったくだらないエピソードが収拾がつかない散らかったままの状態で続いていくのです。

よく「レールに乗った人生」という言葉を聞いたり、評論があります。私はレールから外れる事が苦手です。ひねくれながらも標準的な人生設計のため、浅知恵を駆使して人生の岐路に対応していくのです。

ストレス社会で働く女性の自分時間をプロデュース 『L’ala Pado(ラーラぱど)』リニューアル創刊のお知らせ

ラーラぱど表紙イメージ株式会社ぱどは、平成15年7月に創刊した『L’ala(ラーラ) Pado(ぱど)』につきまして、平成19年4月10日発行号より内容を一新し、リニューアルすることになりました。

詳細は、下記URLから参照下さい。
<〜ストレス社会で働く女性の自分時間をプロデュース〜 『L’ala Pado(ラーラぱど)』リニューアル創刊のお知らせ>
http://www.pado.co.jp/pado/pdf/full.pdf
[PDFファイル]

相澤謙一郎の起業史 6[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 5[19歳 はじめての起業]の続きです。

ハンドボール部の練習は峻烈極まる厳しいものでした。また本来手を携えて勝利を目指すべき顧問、先輩、同級生との軋轢もあり、私の小さな心の器は崩壊していくのです。

精神的余裕を失っても落ち込む事を知らない私は、創造の範囲内での暴走を始めます。また反抗的な態度や傲慢な言動を繰り返すようになります。大馬鹿野郎の登場と言うわけです。

鉄拳制裁を喰らう事もありましたが、今思えば、それが歯止めになっていたのかもしれません。頭は2度ほど丸めました。

暴走の一環としてアクティブな交通手段を手に入れた私は、交友関係においても行動範囲を飛躍的に広げていきました。体育会、バンドマン、サーファー、ロッカーズ、DJ、ダンサー、暴走族、走り屋、空手家、アニメーターなど様々なジャンルの人と顔を合わせるようになっていました。

想像力の無い僕らの遊びの手段は大抵、酒です。ある友人は泥酔状態で補導され名前を聞かれると、苦しみながら「山田ぁ太郎〜」ともがき始めました。ドカベンじゃあるまいし!酒の怖さをはじめて思い知った瞬間です。近い将来、酒を生業にするとは考えもつかない頃の話です。

※未成年の飲酒は、未成年者飲酒禁止法により禁じられております。

部活と遊びに暴走中の私が、唯一、正気になれたのは暗記をしている時です。指定校推薦で大学に入学するには、高校3年まで優秀な成績を取り続けるしかありません。勉強する時間もなく、方法も知らない私はひたすら暗記するしか手立てはありません。

勉強道具は赤ペンと半透明の緑の下敷きです。

兎に角、教科書を暗記しまくりました。挿絵の場所、ページ構成、英語の教科書ではナンシーの顔まで暗記の対象です。効率的かどうか自信はありませんが、テストの問題は丸暗記の敵ではありません。進学校ではなかったので、テスト自体に応用や捻りがなかったのでしょう。いずれにせよ百戦百勝でした。

大馬鹿野郎の私は二つだけ学ぶ事ができました。

ハンドボール部での反復練習とテスト対策のための暗記。これは今でも仕事の基本として大切にしています。基礎練習を繰り返す事で確実に力が蓄積され、あらゆる情報を整理し暗記する事で決断、判断が速くなるのです。

相澤謙一郎の起業史 5[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 4[19歳 はじめての起業]の続きです。

私の高校生活は順風満帆なスタートではありません。不安と絶望に悩まされました。

不安は1学年2クラス80人という少人数制から、1学年11クラス400名のマンモス高になった事です。持ち前の浅知恵で権力と地位を得てきた私ですが、400人のなかで這い上がり(どこに?)、生き残る(何のため?)術を知りませんでした。

絶望は大学に行けないかもという事でした。横須賀学院高校は進学校ではないので、有名大学はおろか進学率さへ高くないのです。プロ野球選手への夢から醒め、現実家となった私は「学歴へのコンプレックスを一生背負うのか、俺は…」と小さな脳で絶望していたのです。当時、大学という機関を過大評価していたのでしょう。

そんな私でしたがすぐに光明が差してきました。指定校推薦制度という仕組みを知り、四年生大学に特別な方法で入学する手段を知ったのです。さぁ浅知恵はフル回転です。

条件はある一定の評定平均(成績の平均値)を得る事、公私共々優秀な生徒である事。評定平均は上位生徒が優先されるので学内でもトップクラスの成績をおさめるを事が求められます。優秀な生徒の指標は、部活動と生徒会などの活動と判断しました。

優秀な生徒には自信がありました。中学時代、担任に目を付けられていたにも関わらず、一度も停学・謹慎などを受けなかった事、牛乳パックの再利用運動を通じ生徒会会長をしていた経験があったからです。さしづめ見せかけ、ハッタリの領域を出ませんが。

問題は学業です。しかもハンドボール部の練習や合宿は激しく厳しく、まとまった休みは正月の三日間だけなのです。血と汗と涙にまみれ、擦り傷、捻挫の耐えない、学業では時に狡猾なまでに暗記を繰り返す高校生活となるのです。

相澤謙一郎の起業史 4[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 3[19歳 はじめての起業]の続きです。

ハンドボールとの出会いは新鮮でした。それは真剣に試合に勝つための練習をしている事でした。

野球部時代、私達はよくサッカーをしていましたし(サッカーには多少の自信もあったのではまりました)、ノックの返球をグローブでなく人を狙って投球したりして、ふざけてばかりいました。

私はハンドボールに夢中になりました。今は亡き人間味のある優しい顧問との出会いも夢中になった要因でしょう。

[恩師の死]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50189701.html

残りの中学生活2年間はハンドボール漬けでした。ハンドボールは球技の格闘技と言われる激しい競技です。思い切り体と体をぶつけ合うのです。私は全力で40m×20mのコートを駆け巡り、ゴールに向かって全力投球する事に熱中していたのです。

マイナー競技のため学校数は多くありませんが、横須賀市では圧倒的1位、神奈川県でもベスト16の成績を残しました。そしてエスカレーター式に横須賀学院高校に入学するのです。

高校では野球部に戻るつもりでした。甲子園に行く夢は100%捨てていなかったのでしょう。私は既に高校野球部の練習に参加していた中学野球部時代の同級生S君を呼び出し、入部テストを依頼します。

テスト内容はストレート一球勝負。このストレートが野球界で通用するようなら野球部に入り、それが無理ならハンドボール部に入るつもりでした。一球入魂というわけです。

渾身の力を込めたストレートはS君のグローブはおろか、グランドのネットを越え、学校に隣接した公園にまで飛んでいきました。準備運動の大切さを思い知らされたわけです。

こうして少年誌以下のドラマを演じる私は甲子園の夢を諦め、ハンドボールを続けるに至りました。

相澤謙一郎の起業史 3[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 2[19歳 はじめての起業]の続きです。

当時の田舎の不良少年のマストアイテムと行動パターンは以下の通りです。

・改造制服
・タバコ
・凶器
・シンナー
・暴力
・不登校
・髪の染色
・群れる、座り込み
・改造自転車

などなどです。
私は上記の行為はおろか、成長の妨げになるという理由からタバコや炭酸飲料にも一切手をつけないような子供でした。

また短ラン、長ラン、ドカン、ボンタンなどと呼ばれる改造制服はファッションセンス的にノーでした。私は機能的である事、流行り廃りのないシンプルなデザインである事、耐久性に優れている事、この3点を重要視します。

改造制服はまず生地が悪質なため、三浦半島の海風に耐える術を知りません。スタイルも異形そのもので、先生や街中の不良少年に目を付けられるリスクも背負う事になるのです。

私はもしかしたら根っからのスポーツマンなのかもしれません。スポーツはルールを守る事ではじめて成立するものです。私はルール違反ができない性質なのです。ルール違反すれすれ、アウトラインギリギリの攻防、ネット越しの激しい闘争、こういったものがスポーツの醍醐味なのです。

反面、決まったルール以外の決め付けや習慣には人一倍抵抗し、思い切り反発するのです。それはグランドの中へ年功序列的考えを入れる事、試合後の待ち伏せ行為、試合中の威嚇行為だったりします。

まぁ鼻持ちならないクソガキといったところでしょうか。

そんな私ですが頼みの野球部が休部となり、選択を迫られます。次の部活を決めなくてはなりません。甲子園への夢を諦めていない私は地肩を鍛えるため強豪でもあったハンドボール部に転部します。恩師との出会いが待っていました。

相澤謙一郎の起業史 2[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 1[19歳 はじめての起業]の続きです。

飲食店を開業しようとした動機は幾つかあります。

‥時、バーの経営者に憧れていた。
△金持ちになりたい。
酒が飲みたい。
い發討燭ぁ

そんなところだろうと思います。若かったので短絡的な動機でした。

動機について書く前に、多少、私の背景をご説明させて頂きます。

私は横須賀学院という私立のミッションスクールに小中高と12年間、エスカレーター式で通いました。祖父が横須賀学院と仕事を通じ縁があった事が理由らしいです。私の勘ぐりでは、息子を私立学校に通わせているという両親親戚の見栄もあったのではないでしょうか。

そんな小さな見栄が悲しくなるくらい決して頭のいい学校ではありません。しかしキリスト教の教えと、自由な校風は、私に多少なりとも影響を与えている事でしょう。

[横須賀学院]
http://www.yokosukagakuin.ac.jp/

走水という漁師町の実家から制服を着て、学校に通っていました。近所に自衛隊官舎などもあり、田舎にしては子供の数は多かったのではないでしょうか。近所の子供達に制服を着ている事を理由に馬鹿にされたりするのがひどく腹立たしく、ストレスでした。

[走水の実家]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50264891.html

かたや学校では持ち前の浅知恵を発揮し、1学年1クラス20数名という狭い世界で権力掌握します。スポーツはサッカー、ソフトボール、野球などのクラブに所属し、抜群の活躍を残し、成績も良い方でした。学校では自信満々の子供でした。

しかし地元で所属していたサッカークラブでは、なんとか1軍に滑りこむ程度の実力でしたし、塾では中くらいの成績でした。この学校と学校外の極端な二重生活は、自分の実力を客観的にとらえる練習になりました。

「己を知り、敵を知れば百戦して危うからず」と言いますが、己を知るという事に関して、私は常に向き合わざるを得ない生活だったのかもしれません。私は臆病なくらい慎重で、石橋を叩いても渡らないような男です。私を知る人は「嘘つけ!」と言いますが、たまにお見せする無謀だったり横暴な言動は、いってみれば豪放磊落な人になってみたいなという変身願望の表れ、とちゃんと説明できるのです。

中学に進学すると新たに生徒が加わり、1学年1クラス20数名から1学年2クラス80名となります。中学においても浅知恵は冴え渡り、そこそこの権力と地位を確立します。それとともに担任からは要注意生徒と見なされるようになりました。

部活は野球部に入部します。野球が大好きで、壁当て(コンクリートなどの壁に向かって投球を繰り返す遊び)している時は至福の時間でした。桑田、斎藤、野茂などの真似をしたり、清原や原から三振を取るシュミレーションを何時間も繰り返してました。将来、プロ野球選手になったらピッチャーからバッターに転向し以下のような選手になろうとしてました。

打席:左打ちかスイッチヒッター
打率:2割8分〜3割の成績をコンスタントに残すアベレージヒッター
本塁打:8〜15本程度
打点:60〜80程度
盗塁:10前後

25歳にレギュラーを取り10年程度、現役で活躍できれば御の字です。プロ野球選手になれないまでも甲子園には出たいと考えていたので、野球部に入部したわけです。

しかし現実は厳しく、野球部はちょっとした不良少年の集まりで、何度目かの事件発覚後、休部扱いとなってしまいます。中学1年の終わりの頃です。

秋の新人戦があえなく最期の公式戦となりました。はじめてユニフォームを着る喜びに溢れていた私ですが、なぜか学校ジャージに背番号を縫い付けるというダサい姿で、簡単にコールド負けしました。下の下もいい所、最低最悪の成績です。顧問らは野球部を休部にする固い決意をユニフォームを作らせないという態度で示したわけです。

こんな経緯から私は田舎の不良少年が想像し得るだいたいの遊びと不良行為、そして教師達に対する反逆精神を身につけていったのです。

相澤謙一郎の起業史 1[19歳 はじめての起業]

EA松本副社長に触発されて起業史を書こうと思いました。

[松本拓也の起業史 1]
http://ameblo.jp/hatarakanai/entry-10026767838.html

私がはじめて起業したのは1996年4月末頃です。当時私は19歳でした。神奈川県横須賀市本町に6坪の物件を借りました。横須賀のドブ板通りの一本裏の路地に面した木造2階建ての2階です。

[横須賀ドブ板通り]
http://www.mixpink.com/spot_folder/yokosuka_folder/yokosuka.html

その通りはションベン横丁と言われたらしいです。飲み屋が立ち並ぶドブ板通りで酔っ払っいが、千鳥足よろしく路地に迷い込んで立小便をするスポットだったのでしょう。

ションベン横丁にも何件かの飲み屋があり、私が借りた物件の1階も「でこちゃん」というスナックでした。「でこちゃん」も6坪位の狭いスナックでしたが、60前後のママとその息子さんの生活を支えていたのですから、かなりの売上があったのでしょう。

「でこちゃん」のママの生い立ちは不明ですが、ドブ板のママらしいしゃがれた声でたまに2階にも遊びにきてくれるのです。とても優しい親子でした。

私が借りた物件も確か「富士」というスナックでした。荒れ果てた店内は、5人掛けの短いカウンターと4畳くらいのこあがりという内装でした。こあがりにはカーテンで閉ざされる仕掛けがあり、きっとママがここで寝てたのだろうと思いました。もしかしたら愛を語り合っていたかもしれません。

私はこの6坪の物件で、2ヵ月後に飲食店を開業する事になります。
月刊相澤謙一郎ブログ
QRコード
QRコード
お知らせ
1.記載されている内容は、株式会社ぱど、ならびにぱど関連会社の考え方ではなく、あくまで相澤謙一郎の個人的見解によるものです。なお相澤謙一郎は2008年6月30日をもって株式会社ぱどを退職しております。

2.コメント、TB(トラックバック)は、基本的に大歓迎です。その際、コメントを頂ければ幸いですが、勿論、コメント無しでも構いません。

3.ただし、記事の内容に関係のない、あるいは不適切なTB(アダルトTB含む)、コメントは予告無く削除させていただく場合がございますので、ご了承下さい。

4.基本的にリンクフリーですが、ご一報頂ければ幸いです。
メニュー
Twitter Widgets
関連書籍
ブログランキング
にほんブログ村 ベンチャーブログへ
最新コメント
最新トラックバック
西暦1862年 - 生麦事件 (ぱふぅ家のホームページ)
生麦事件と有村俊斎
「パワーブロガーが選ぶ、2008年度ウェブキャンペーンベスト5」バトン (↑【パワーブロガーの法則】世田谷のProducer(映画キャスティング・広告・出版・ブログ・グッズ等))
サンデーモーニング会議@高田馬場
マーケティングの新潮流vol.1 感想御礼 (↑【パワーブロガーの法則】世田谷のProducer(映画キャスティング・広告・出版・ブログ・グッズ等))
マーケティングの新潮流vol.1
芸術の秋 〜 展覧会巡り計画中 〜 (広告代理店勤務女子の憂鬱☆彡)
菌類のふしぎ
白洲次郎とは何者だったのか(50) (折り返し地点を過ぎれば人生下り坂)
寺崎太郎
天気
ぱどタウンティッカー
  • ライブドアブログ