相澤謙一郎の起業史 9[19歳 はじめての起業]の続きです。

関東大会出場の道を絶たれた我がチームは、現役最後の大会、インターハイ予選に向け始動します。

3年間戦い続けて私達は、十分に自分達の発揮できるポテンシャルを理解していたと思います。ましてや強豪高校のほとんどの選手は、中学時代から見知った連中です。最後の大会は、試合前からトーナメント表を見て、「この日が最後になるかな」と思ってしまったものです。

一方、私はいよいよ追い詰められました。ハンドボールでの進学の可能性は、絶望的となり、成績で勝負するしかありません。ハンドボールも勉学も中途半端で終わり進学できなかったら、どうにもならないなと考えていました。三浦半島から出る事もなく、一横須賀人として人生を全うするのは当時の私には絶望的人生だったからです。(今は一横須賀人としての生き方をとても尊重しています。)


最後の大会は、終始安定したプレーをする事ができました。そして全ての試合で先発出場させてもらいました。と言うのも、私は怪我や様々な問題からベンチスタートがかなり多かったのです。

結果は、神奈川県ベスト4の座をY高校と争い敗れました。

この試合、怪我のため出場できなかった主将をフリースロー(サッカーで言うPK)で出場させようとチーム一丸になれた気がしています。常に勝つ事を義務付けられたきましたが、やっぱり団体スポーツはチームワークなくして成り立たないものです。その感覚をはじめて最後の試合で知りました。時、既に遅しというものです。
ハンドボールをはじめよう

血と汗と涙のハンドボール部生活の終わった瞬間でした。

相当量の血が横須賀学院のグランドには染み込んでいます。気合や根性が重要視されるため、傷だらけの身体で思い切りグランドに倒れこみながらシュートを放ち続けました。

汗の量は想像を絶します。飲む水の量が尋常ではありませんでした。部室の臭いも強烈です。

涙もあります。悔しさや痛さは勿論の事、極限を超えると涙が流れます。倒れながら泣いたり、震えながら泣いたり、ただ涙が止まらなかったり、不思議な光景を目の当たりにしたものです。

地獄のような日々から開放された喜びはひとしおでしたが、反面、ハンドボーラーから普通の高校生に戻った僕らは無力でした。

実に。中途半端な坊主頭の色黒ですばしっこい少年達です。


不思議なものであれだけ嫌いだった練習の日々も、あれだけの練習をやってきた俺が大学受験などに負けるものかと、理不尽な理論で進学に向け走り始めます。