徳川信康(松平信康)は徳川家康の嫡男で、1563年3月25日(永禄6年)、織田信長の娘、徳姫と婚約したと云われています。

信康の母は家康の正室の築山殿ですから、家康の跡継ぎとして将来を嘱望され育ちました。しかし、武田家との内通の疑いで実母、築山殿もろとも実父、家康の命令で処断されてしまいます。何とも惨い話です。

発端は、姑の築山殿と折り合いが甚だ悪かった徳姫(築山殿は武田家と縁が深い今川家の出自)が、信長に築山殿と武田家の内通疑惑を訴えたと云われており、これを由とするわけが無い信長が、家康に築山殿とその子、信康の処刑を要求したのです。

天下布武事業成立目前の織田家と同盟関係にあった家康は、この同盟を破綻させるわけにはゆかず、妻と嫡男を処断する決意をしたのです。

この挿話には諸説ございますが、「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰(ほととぎす)」と評された織田信長、「鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰」と評された徳川家康の性質を表しているかもしれません。

私が家康の立場であれば、城を枕に討ち死に覚悟といった所でしょうが、「耐えがたきに耐え」る忍耐力も天下人には必要なのでしょう。

信康の妻、徳姫は1636年まで永らえ、天寿を全うしています。

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