相澤謙一郎ブログ「22世紀にのこる ものつくりを志して!」

相澤謙一郎の理念  一、無から有を生みだす。 一、顧客の笑顔=商品の付加価値=利益 一、世のため人のためになる事をする。それ以外はしない。 一、変化を恐れない改革者であり続ける。 一、従業員はもとより、家族、親族、近隣住民を大切にし、彼等から信頼される企業となり、人となる。

起業

商売の原点

19歳で起業(当時は起業という言葉すら知らなかったが)して20年。ありがたいことに取材の依頼をいただき、深夜に昔の写真を掘り起こしていたらバーテン時代の写真がでてきた。
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1996年ドブ板の一本の裏通り、大黒湯の前で6坪のバー「L.A.B」を開業。連日連夜のにぎわいで約5年間、カウンターに立つことができた。店を開けて、夜中に閉店してから飲み歩いて、朝方仮眠してから昼間の仕事に行きつつ、バンドを幾つも掛け持ちする生活。単車一台でどこにでも行くことができた。散々やりたい放題やったので、これからの起業生活は次世代の若者を育む、商売をさせてもらっている地域に還元することに専念したい。

ドブ板が商売の原点。あれから20年経って、いまでになにひとつ成功していない己の愚かさに呆れつつ、6坪の飲み屋をはじめた頃のチャレンジ精神だけは忘れず今日も明日も挑戦!!

就職するなら業界最大手、それ以外なら起業

大学三年生のインターン生に就職活動についてヒアリングしたところ、いわゆるITベンチャーに就職したいとのこと。大企業、できれば業界最大手企業への就職をおすすめした。

・最大手企業は最大手たる強みがある。最大手であるから一番強い。二番手では学べないこと、経験できないことを体感することできる
・優秀な人材(上司、同僚、後輩、取引先)と出会える可能性がたかい。人脈は財産になる。
・履歴書に泊がつく
・ベンチャーにはいつでもいける

ざっとこのような理由で、おすすめした。しかしながら、自分自身、大企業の皆さんと仕事をしたり、合弁会社を設立したことはあるが、実際に働いたことがないので、間違っているかもしれない。

また中途半端なベンチャーに行くなら、自ら起業してベンチャーを興せばいいとアドバイスした。彼は開発者で、既に開発環境(Mac)があるし、コードも書けるので、資本金は小額でいい。ベンチャーの経営者はたいてい若いから、いくら出世しても社長にはなれないことことが殆ど。出世しても役員どまり。社長じゃないと体験できないことは多いので、起業して社長になるのが、己が成長する可能性が高いし、同年代の競争相手との差別化につながる。

今月か来月あたり、会社を興すことを猛烈にプッシュしよう。

重い荷物を持って歩く夢

深夜に帰宅しシャワーだけ浴びて即寝する毎日ですが、時折、夢をみることがあります。昨晩は、重い荷物を持って苦しみながらヨタヨタ歩く夢をみました。

そういえば先週、Macbook2台とプロジェクター1台を持ち歩いていた日がありました。あの苦しみが夢になった出てきたのでしょうか。

起業してからの変化の一つは、荷物が重くなったことです。今まで使っていた鞄は荷物の多さに耐えきれず壊れました。先日、余りにも重くてイライラしたので、計量したところ7kg以上ありました。

ハンドボールをやっていた頃のように、軽やかに空中を飛び回りたいと思うこの頃です。

相澤謙一郎の起業史 15[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 14[19歳 はじめての起業]の続きです。

重傷を負った私は見事なまでに包帯だらけでした。噂を聞いた友人達がわざわざ私を笑うために自宅までやってきました。彼らの爆笑ぶりを見ると、完全に馬鹿にされているわけですが、首の周りが痛く、反撃は不可能です。

数日間は自宅から通院の日々でした。

総合病院なので、日中混雑するため病院には朝一で行きます。毎朝、待合室でお婆ちゃん達になぜ怪我をしたかの説明をする必要がありました。ほのぼのとた光景ですが、肉が削げた踵の消毒は地獄の痛みです。

保険や事故相手の交渉など様々な後始末をしながら、脳への後遺症、欠席が重なる必修科目の事、ライブが近づいていたバンドの事、そして店舗内装工事ができない心配など、様々な不安要素を抱えるに至りました。

自業自得です。

「ちょっとケンちゃん大丈夫?」意外な出会いが私を励ましてくれました。偶然にも通院していた総合病院では、かつてのアルバイト先の先輩と、高校の同級生が看護婦(実習生)として勤務していたのです。これが横須賀の狭さです。

内心、友人にも爆笑されるミイラ姿でしたので「やばい…」と思ったのですが、ちょっと驚くほど優しくしてくれたので、癒されました。まさに白衣の天使です。

早速、横須賀中央に飲み行き、看護婦さん友達も増えていきました。彼女達は、私が将来開業するお店の常連さんになってくれます。今思うと、当時の方が営業力があったかもしれません。


しかし、えへらえへらと酔っ払ってばかりはいられません。不動産契約した物件のテナント料金は日々発生してますし、そもそも遊んで暮らす金などないのです。褒められた話ではありませんが、医療費も払えなくなったので病院に行く必要もなくなりました。

幼い起業家は松葉杖片手に立ち上がるのです。
骨折包帯写真

相澤謙一郎の起業史 14[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 13[19歳 はじめての起業]の続きです。

それは紛れも無い大事故です。1996年5月初旬の朝、RG250Eで学校への道を急いでいた私は、三春町の交差点で右折車と正面衝突してしまいました。

「やべぇ!」と思った瞬間には、金属と金属が激しくぶつかり、軋み合う感覚を瞬間だけ味わうと宙に飛んでいました。

地面に叩き付けられ目を覚ますと、不思議な光景に出会いました。

私の周辺に人だかりが出来ているではありませんか。しかも「動いたぞ!」とか「生きてるぞ!」「動くな、動くな!」などのかけ声が聞こえてきます。ちょっと意味不明でしたが、血だらけのタオルが頭の傍にあったので、さらに混乱しました。

そんな時、道の向こうにRG250Eの姿が見えました。

RG250Eはマフラーをレース用チャンバーに変えたばかりで、フレーム加工などの改造を終え、バイク屋から納車されてきたばかりだったのです。またバイク屋に納車か…せっかく帰ってきたのに…でも思いの外、壊れてなさそうだな…あっ、絶版のランプは無事!…などと単車の事ばかり頭に浮かんできました。

すると救急車がやって来るではありませんか。「もう救急車来たんですか。早いですね。」と言うと、恐らく頭からの流血を拭ってくれた方が「遅いくらいよ!あんた、30分近く意識無かったのよ!」と教えてくれました。


サプライズです。


さぁ、ここから「救急外来24時体験版」のはじまりです。

病院に着くなり、担架が走り始めます。看護婦さんも大急ぎで大変そうです。

まずは脳みそチェックです。筒状の機械に入って、写真みたいなものを撮ります。次は縫合手術です。何のためらいもなく頭を剃られたので驚きました。剃刀が傷口に触れると初めて痛みを感じました。

何本か痛み止めの麻酔を打つと、後は縫い針がプスプス頭に刺さる感覚が残るだけなので耐える事ができます。膝の縫合は丸見えなので、嫌な感じでした。

指の甲は骨折です。ヒビより治りが早いとの事でしたので、多少喜んだ事でしょう。

強烈だったのが踵です。NIKEエアーマックス2は宙に飛び去り、僕の踵を思い切りアスファルトに引き摺りながら叩きつけたようです。肉がそげてしまいました。靴下を脱がされ、消毒するわけですが、土が入り込んでいるようなので、兎に角強く擦られたのです。


この痛みは人生、最凶クラスです。

他に、各部裂傷、鞭打ち症状の重傷を負いました。

最後のサプライズは「病室がいっぱいなので、松葉杖を貸します。お引取り下さい。」と言われた事です。

自宅療養のはじまりはじまり。

相澤謙一郎の起業史 13[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 12[19歳 はじめての起業]の続きです。

現在のようにインターネット検索ができる時代ではありませんから、物件探しは足に頼るしかありません。RG250Eを駆り、不動産屋をひたすら廻る毎日です。

何日目にかに、上町で運命の張り紙を見つけます。

緑ヶ丘、6坪、家賃6万、敷金×2ヶ月、礼金×2ヶ月

その激安ぶりに私は飛びつきました。早速、不動産屋に飛び込み、物件を内見します。想像を絶する廃墟でしたが、もう勢いは止まりません。すぐにパートナーを説得して、不動産契約をします。場所は横須賀の飲ん兵衛が集まるドブ板通りです。

時に1996年4月の事でした。

毎晩、作戦会議のはじまりです。6坪の店内をいかに有効活用するか。因みに内装工事は、お金がないので全て自分達で施工する算段です。

検討の末、私の吉野家式内装が採用されました。
LAB内装図

当時、対面式のバーは画期的だったかもしれません。今で言うとラーメン店の一蘭さんが対面型の内装で座席数を増やしています。対面式だと人目が気になりますから、格子を水道パイプで造作する事により、目隠しを設けました。

カウンターとカウンターの間が通路になっており、バーテンダーは格子越しにオーダー品をお客様に届けます。また消防法対策のため、客席との境に扉も設けました。

店舗デザインもほぼ決定したので、工事の始まりです。

まずは現在の造作の破壊作業です。大型の槌を振るい、殆どの構造物を破壊しました。積年の埃のせいか、目が腫れ上がってしまいました。数日で撤去作業を終了させ、いよいよお店作りの開始です。

トイレの出入り口を変更したため、新たに手洗いを造作する必要があります。排水溝の逃げ口を確保するため、一段床を棚上げする事にします。水道工事、棚上げ工事、電気工事など全て自分達で施工しました。

資材は横須賀市内のDTYショップや木材屋さんから仕入れました。

順調に続いた内装工事でしたが、思いがけぬ大事故が私を待ち受けていました。

相澤謙一郎の起業史 12[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 11[19歳 はじめての起業]の続きです。

私のキャンパスライフは新鮮で、驚きに溢れたスタートでした。そして自分の無知や知識の無さを思い知らされるのです。

大学は東京にあるものだと思っていましたが、明治学院大学法学部の校舎は横浜市戸塚区の山の中腹に位置していました。またフレンドリーな方が多い事にも驚きました。特にサークルの勧誘、勧誘飲み会では初対面なのに、下の名前で呼び合うのです。極めつけは、横須賀学院出身という事だけで頭が悪いと先入観を持たれた事です。

私の人格や背景を何一つ知らない方々との出会いは、驚きと新鮮さの連続で、高校時代のような怒りや憤りは感じませんでした。

部活は体育会のハンドボール部に体験入部しました。ハンドボール部は人間関係で問題を起こしそうだと思ったので、入部を諦めました。先輩方はほとんど初心者でしたが、やはり先輩としての威厳がありますから、私のような言う事を聞かない男は存在してはいけないと思ったのです。

キャンパスライフへの憧れや高揚は2、3日で冷めてしまいました。

自然とカクテルバーのアルバイトとバンド活動に傾向していくのです。


昼間、必修の授業だけ出席し、17時〜翌朝5時までアルバイト。バンドのリハーサルがある時は、22時くらいからアルバイトに行きました。そんな毎日でした。

時給800円とはいえ、長時間労働だった事、お金をほとんど使う時間が無かった事もあり、開業資金は着々と貯まっていきました。

またカクテルバーでは、水商売の基本を学ぶ事ができました。掃除、料理や賄いの仕込み、在庫確認、発注、バーテンダーの基礎知識、話法、営業、そしてお客様より学ぶ事も少なくありません。

鶏の唐揚げの仕込みは思い出深いものがあります。包丁で鶏肉の油という油、筋という筋を全て取り除いてから特性のタレに漬け込むのですが、一度始まると2〜3時間は終わりません。この仕込みはつらいのですが、お客様の「お肉柔らかい!」「おいしい!」の一言で苦労は報われました。生意気にもいっぱしの水商売人ですね。

営業に関しては、毎日街頭でビラを配ったり、極めつけはキャバクラにも営業をかけました。多少の成果もあって、お店は水商売の女性のアフターで賑わいました。

また店を盛り上げるためライブイベントの企画をはじめます。バンドのブッキング、フライヤー作成、機材搬入、進行管理、そして出演までこなしました。

様々な経験を積む事により、開業への意欲は強くなるばかりです。ハンドボールで鍛えた機動力を発揮し、2人のパートナーと物件候補を見つけます。パートナーは師匠とも言うべきChaosのマスターとChaosのお客さんの一人でした。

そして1996年3月頃、お世話になったカクテルバーでのアルバイトを辞めます。

勝負に出る事に決めたのです。私は19歳になっていました。

相澤謙一郎の起業史 11[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 10[19歳 はじめての起業]の続きです。

ハンドボール部を引退した私は、一学期の期末試験を迎えますが、暗記大作戦でまたもや連戦連勝。後は指定校推薦の結果を待つばかりの状態となりました。


そして高校時代最後の夏休みを迎えます。


もとより受験勉強を全然する気のない私は、相当の時間を持て余していました。一人でモーターサイクルと戯れる位しかやる事がありません。

そんな時、Chaosという素敵なお店に出会いました。アメリカントーイに囲まれた古木仕様の店内は、BARというよりオモチャ箱のようでした。私はこのBARでほとんど全てを学びました。


当時のChaosには、横須賀中のいかした人が集まっていた気がします。ドブ板の古着屋さんや、ロッカー、ブルースマン、モッズ、サーファー、中毒者、ご近所さん達。

私の知らない事を知っているかっこいいお兄さん、かわいいお姉さん達にたちまち夢中になってしまいます。アルバイトのお小遣いを握り締めて、酒の味の分からない私はChaosのメニューを上から順番に注文したものです。


すっかり全てのメニューを注文し終わる頃には夏休みも終わり、そしてあっけなく明治学院大学法学部法律学科への入学が決定しました。地獄の部活に耐え、暗記魔に徹した事が功を奏したようです。

受験勉強や就職活動に忙しい周辺をよそに、私は余裕綽々とラーメン屋のアルバイトとChaos通いに興じるようになります。横須賀の飲み仲間も増え、高校を卒業する頃にはいっぱしの飲ん兵衛に成長していました。

また友達関係に関しては、受験に無関係なバンドマンや単車乗りとの交流が中心になっていました。

酒、モーターサイクル、ロックンロールというゴールデントライアングル。典型的な横須賀野郎の出来上がりというわけです。底無しにドップリ嵌りました。


ハンドボール部時代に鍛えた瞬発力と根性は、若い私を縦横無尽に動かし続けます。Chaosのマスターに憧れた私は、米ヶ浜のカクテルバーで17〜5で働き、飲食店開業資金を貯め始めます。モーターサイクルは、ミーハーなアメリカンから、空冷2ストローク2発1978年製RG250Eに乗り換え、ロックはドラムを叩き始めました。
RG250E[お疲れ様。僕のRG達。]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50749546.html


[馬鹿になって10年続けている事。]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50245305.html

暴走劇のはじまりはじまり。

相澤謙一郎の起業史 10[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 9[19歳 はじめての起業]の続きです。

関東大会出場の道を絶たれた我がチームは、現役最後の大会、インターハイ予選に向け始動します。

3年間戦い続けて私達は、十分に自分達の発揮できるポテンシャルを理解していたと思います。ましてや強豪高校のほとんどの選手は、中学時代から見知った連中です。最後の大会は、試合前からトーナメント表を見て、「この日が最後になるかな」と思ってしまったものです。

一方、私はいよいよ追い詰められました。ハンドボールでの進学の可能性は、絶望的となり、成績で勝負するしかありません。ハンドボールも勉学も中途半端で終わり進学できなかったら、どうにもならないなと考えていました。三浦半島から出る事もなく、一横須賀人として人生を全うするのは当時の私には絶望的人生だったからです。(今は一横須賀人としての生き方をとても尊重しています。)


最後の大会は、終始安定したプレーをする事ができました。そして全ての試合で先発出場させてもらいました。と言うのも、私は怪我や様々な問題からベンチスタートがかなり多かったのです。

結果は、神奈川県ベスト4の座をY高校と争い敗れました。

この試合、怪我のため出場できなかった主将をフリースロー(サッカーで言うPK)で出場させようとチーム一丸になれた気がしています。常に勝つ事を義務付けられたきましたが、やっぱり団体スポーツはチームワークなくして成り立たないものです。その感覚をはじめて最後の試合で知りました。時、既に遅しというものです。
ハンドボールをはじめよう

血と汗と涙のハンドボール部生活の終わった瞬間でした。

相当量の血が横須賀学院のグランドには染み込んでいます。気合や根性が重要視されるため、傷だらけの身体で思い切りグランドに倒れこみながらシュートを放ち続けました。

汗の量は想像を絶します。飲む水の量が尋常ではありませんでした。部室の臭いも強烈です。

涙もあります。悔しさや痛さは勿論の事、極限を超えると涙が流れます。倒れながら泣いたり、震えながら泣いたり、ただ涙が止まらなかったり、不思議な光景を目の当たりにしたものです。

地獄のような日々から開放された喜びはひとしおでしたが、反面、ハンドボーラーから普通の高校生に戻った僕らは無力でした。

実に。中途半端な坊主頭の色黒ですばしっこい少年達です。


不思議なものであれだけ嫌いだった練習の日々も、あれだけの練習をやってきた俺が大学受験などに負けるものかと、理不尽な理論で進学に向け走り始めます。

相澤謙一郎の起業史 9[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 8[19歳 はじめての起業]の続きです。

神奈川選抜の道を絶たれ一週間ふて腐れた後の私は、気持ちを切り替えて熱心に練習に取り組もうと思いました。そもそも選抜に選出される実力がないのに、逆恨みするのが今思えば若過ぎます。

一つ、ハンドボールというチームワークや協調性が必要な球技においてあまりにも自己中心的なプレーが多く、献身的なプレーに欠ける。また神奈川県を代表するにふさわしい人格でない。

一つ、基礎体力に欠け、また改善の努力が足りないので、捻挫や間接の炎症といった故障が多く、安定性がない。

一つ、好不調の波が激しく、安定感に欠く。

などなど実力が無いのです。


しかし私にはまだまだチャンスが残されています。関東大会予選、インターハイ予選という最後の大会が待ち受けています。


我々は、関東大会予選のブロック決勝にまで駒を進めました。しかしチームは今ひとつ、まとまりに欠けていました。大会中にも毎度ながらつまらない事件を起し、頭は丸坊主です。

とは言えトーナメント戦ですから、絶対に負けられません。自分の心持を多少、コントロールする事を憶えてきた私は安定的なプレーを心がけていました。しかし接戦の中、試合終了間際にファールを犯し、フリースロー(サッカーで言う所のPK)を与えた挙句、レッドカードで退場(2分間)になってしまいました。

背丈の低いポストプレーヤーの体を後ろから押さえ付けた事によりファールを取られたのです。これには私自身、驚愕しました。体ではなくボールに対して、手を出していたのです。背丈の低いプレーヤーへのプレッシャーはファールに取られがちな事を理解しているので、そう見られないよう体に触れないようボールにプレッシャーをかけていたのです。

と言っても後の始末。スポーツにとって審判は絶対的存在です。

厳しい表情で私に迫る審判の黒く焼けた顔と、退場を示す彼の二本指を忘れる事はないでしょう。我々はこのファールによるフリースローで逆転され、敗北するのです。

敗北の瞬間、私は退場処分によりフィールド外に出されていました。試合終了のホイッスルが鳴ると、思い切り地面を殴りつけました。少し泣いたかもしれません。頭がぶっ飛ぶほど悔しい思いをしました。青春の一ページ以外の何者でもありません。

この悔しさは人生最大級かもしれません。恥ずかしながら二十台中盤まで、T校監督だったあの審判に退場を告げられる夢を見てうなされていました。なぜか実家の風呂に入っている時、思い出し悔しがりをしてました。

結構、しつこい男ですね。

相澤謙一郎の起業史 8[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 7[19歳 はじめての起業]の続きです。

日々を小さなエピソードで散らかしながら、気が付けば高校3年です。ハンドボール部副主将、生徒会中央執行委員、美化委員などを兼任していました。

私は整理整頓には煩い方です。部下にも「見つからない書類を捜す時間はコストです。コスト削減のため整理整頓を日々心がけて下さい。」と繰り返し伝えています。

高校生の頃は、整理整頓が好きだったから美化委員になったつもりはありません。普段、あまり交流の無い生徒への好奇心や、厳しい部活を会合の時など30分程度公式に休めるといった事が目的です。生徒会に関しても、中学からの友人が生徒会長に就任したので、ちょっとしたノリで加わりました。

生徒会や美化委員はほとんど仕事をした記憶がありません。今思えば真面目に取り組んでいる方に対して、失礼極まりありません。今では社会人ですから、こういう態度で仕事に臨む事は許されませんし、そのような方には勇気を持って忠告したいと思います。


高校三年といば進学校の生徒なら、すわ受験と勉強に忙しい頃なのでしょう。しかし私にはハンドボールがあります。中学・高校の集大成として全国大会に出場する事を目標としていました。全国大会に出場すると、大学進学のレセプション(スポーツ推薦での試験)でも箔が付きますし、成績によってはレセプション無しで入学できる場合もあるのです。この頃の私は、自分の事しか考えていません。


全国大会に出場するためには、神奈川県大会で優勝するか、神奈川県選抜メンバーによって構成されるインターハイ出場に向け、神奈川県選抜になる事です。


まず神奈川選抜の道が絶たれました。人生最大の落胆です。


中学生の頃から強烈に憧れていた存在が、神奈川選抜でした。


同じグランドで見ていた先輩が選抜の練習に参加する姿に強い憧れを持ち、高校入学後も身近な先輩が選抜から大学進学する姿を見ていましたので、「絶対、俺も!」と思い込んでいたのです。

この時は夢遊病患者さながら、学校に行きたくないのでダラダラ歩くものですから毎日のような遅刻するは、授業はさぼる、学校は抜け出す、仮病をつかって部活は休むといった始末です。「取り返しのつかない事になってしまった。」「人生は終わりだ。」など大袈裟にネガティブな思考に囚われ、一週間ほどふて腐りました。

ふて腐れた男のくだらなさを身をもって知りました。

そして人生最大の恐怖体験を告白します。

強豪高校でもあった我が母校からは三人の選抜メンバーが選出されました。これは監督推薦によるものです。恐怖体験とは、まずは監督を憎んだ事、そして仲間を妬んだ事です。

一週間、憎み、妬みに囚われた私は、その思考を激しく後悔します。そして二度と憎み、妬みといった感情を持たないと決めたのです。

相澤謙一郎の起業史 7[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 6[19歳 はじめての起業]の続きです。

私は新入社員や部下に、京セラ稲盛名誉会長の仰る考え方の大切さを繰り返し伝えています。しかし高校時代の私の考え方は、大きくマイナスに振れていました。

[中途入社研修]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50697406.html

へそ曲がりのひねくれ者です。

私は高圧的な態度や、上からものを言うような態度に生理的な嫌悪感を激しく抱いていました。年の上下や状況も考えず、そういう人には徹底的に反発するのです。

ある日、某強豪高校の不良ハンドボーラーに練習試合中に因縁を付けられました。不良にかこつけて人を脅迫しようとする態度は断じて許せません。スポーツマンとしてあるまじき行為です。私は接触プレイ中に、マテラッツィさながらの侮辱発言で対抗したのです。無論、私もスポーツマン失格です。

不良少年には導火線がありません。彼は試合の事も忘れ、私に殴りかかってきました。

このようなトラブルは実際、何度かありました。私はトラブルを回避する自信があった事も事実です。実戦空手や授業での柔道の経験もありますし、駆け足と持久力には相当な自信がありました。つまり逃げるが勝ちという寸法です。

この不良少年に対しても、私は全力疾走で対抗です。あえなく彼は私にジダンさながらの一撃を加える事なく、審判やら顧問やらに取り押さえられました。※一流(ジダン)と素人(不良少年)の差ですね。

完全勝利!

と言いたいところですが、不良少年の執念深さを皆さん、ご存知でしょうか。報復するまで彼らは諦めません。報復が報復を呼び、恨みが恨みを生む。生産性の無い話ですが、これは人間の性なのかもしれません。

彼らはチーム一丸となって復讐にやってきました。丁度、茨城での強化合宿中でしたから、彼らは私達が激しい練習に疲れ果て、眠りこけている頃合を見計らい襲ってきたのです。

この夜襲には驚きました。

一番の驚きは、朝起きるまでこの夜襲事件に私自身、全く気が付かなかった事です。私は朝起きると、弁当の生ゴミなどが散乱しているので、後輩を叱ったのですが、まさか私が原因で夜襲を受けていたとは思いません。事実を聞いて、笑い転げました。

合宿は続きますが、それ以降、目立った報復攻撃はありませんでした。もしかしたら、彼らはちょっとした優越感に浸っていたのかもしれません。「俺はお前らが奇襲した時寝てて、朝起きるまで知らなかったぞ。痛くも痒くもないぞ。」と言う意欲は私に全くありません。結構、さっぱりした性格なのかもしれません。


私の十代は、こういったくだらないエピソードが収拾がつかない散らかったままの状態で続いていくのです。

よく「レールに乗った人生」という言葉を聞いたり、評論があります。私はレールから外れる事が苦手です。ひねくれながらも標準的な人生設計のため、浅知恵を駆使して人生の岐路に対応していくのです。

相澤謙一郎の起業史 6[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 5[19歳 はじめての起業]の続きです。

ハンドボール部の練習は峻烈極まる厳しいものでした。また本来手を携えて勝利を目指すべき顧問、先輩、同級生との軋轢もあり、私の小さな心の器は崩壊していくのです。

精神的余裕を失っても落ち込む事を知らない私は、創造の範囲内での暴走を始めます。また反抗的な態度や傲慢な言動を繰り返すようになります。大馬鹿野郎の登場と言うわけです。

鉄拳制裁を喰らう事もありましたが、今思えば、それが歯止めになっていたのかもしれません。頭は2度ほど丸めました。

暴走の一環としてアクティブな交通手段を手に入れた私は、交友関係においても行動範囲を飛躍的に広げていきました。体育会、バンドマン、サーファー、ロッカーズ、DJ、ダンサー、暴走族、走り屋、空手家、アニメーターなど様々なジャンルの人と顔を合わせるようになっていました。

想像力の無い僕らの遊びの手段は大抵、酒です。ある友人は泥酔状態で補導され名前を聞かれると、苦しみながら「山田ぁ太郎〜」ともがき始めました。ドカベンじゃあるまいし!酒の怖さをはじめて思い知った瞬間です。近い将来、酒を生業にするとは考えもつかない頃の話です。

※未成年の飲酒は、未成年者飲酒禁止法により禁じられております。

部活と遊びに暴走中の私が、唯一、正気になれたのは暗記をしている時です。指定校推薦で大学に入学するには、高校3年まで優秀な成績を取り続けるしかありません。勉強する時間もなく、方法も知らない私はひたすら暗記するしか手立てはありません。

勉強道具は赤ペンと半透明の緑の下敷きです。

兎に角、教科書を暗記しまくりました。挿絵の場所、ページ構成、英語の教科書ではナンシーの顔まで暗記の対象です。効率的かどうか自信はありませんが、テストの問題は丸暗記の敵ではありません。進学校ではなかったので、テスト自体に応用や捻りがなかったのでしょう。いずれにせよ百戦百勝でした。

大馬鹿野郎の私は二つだけ学ぶ事ができました。

ハンドボール部での反復練習とテスト対策のための暗記。これは今でも仕事の基本として大切にしています。基礎練習を繰り返す事で確実に力が蓄積され、あらゆる情報を整理し暗記する事で決断、判断が速くなるのです。

相澤謙一郎の起業史 5[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 4[19歳 はじめての起業]の続きです。

私の高校生活は順風満帆なスタートではありません。不安と絶望に悩まされました。

不安は1学年2クラス80人という少人数制から、1学年11クラス400名のマンモス高になった事です。持ち前の浅知恵で権力と地位を得てきた私ですが、400人のなかで這い上がり(どこに?)、生き残る(何のため?)術を知りませんでした。

絶望は大学に行けないかもという事でした。横須賀学院高校は進学校ではないので、有名大学はおろか進学率さへ高くないのです。プロ野球選手への夢から醒め、現実家となった私は「学歴へのコンプレックスを一生背負うのか、俺は…」と小さな脳で絶望していたのです。当時、大学という機関を過大評価していたのでしょう。

そんな私でしたがすぐに光明が差してきました。指定校推薦制度という仕組みを知り、四年生大学に特別な方法で入学する手段を知ったのです。さぁ浅知恵はフル回転です。

条件はある一定の評定平均(成績の平均値)を得る事、公私共々優秀な生徒である事。評定平均は上位生徒が優先されるので学内でもトップクラスの成績をおさめるを事が求められます。優秀な生徒の指標は、部活動と生徒会などの活動と判断しました。

優秀な生徒には自信がありました。中学時代、担任に目を付けられていたにも関わらず、一度も停学・謹慎などを受けなかった事、牛乳パックの再利用運動を通じ生徒会会長をしていた経験があったからです。さしづめ見せかけ、ハッタリの領域を出ませんが。

問題は学業です。しかもハンドボール部の練習や合宿は激しく厳しく、まとまった休みは正月の三日間だけなのです。血と汗と涙にまみれ、擦り傷、捻挫の耐えない、学業では時に狡猾なまでに暗記を繰り返す高校生活となるのです。

相澤謙一郎の起業史 4[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 3[19歳 はじめての起業]の続きです。

ハンドボールとの出会いは新鮮でした。それは真剣に試合に勝つための練習をしている事でした。

野球部時代、私達はよくサッカーをしていましたし(サッカーには多少の自信もあったのではまりました)、ノックの返球をグローブでなく人を狙って投球したりして、ふざけてばかりいました。

私はハンドボールに夢中になりました。今は亡き人間味のある優しい顧問との出会いも夢中になった要因でしょう。

[恩師の死]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50189701.html

残りの中学生活2年間はハンドボール漬けでした。ハンドボールは球技の格闘技と言われる激しい競技です。思い切り体と体をぶつけ合うのです。私は全力で40m×20mのコートを駆け巡り、ゴールに向かって全力投球する事に熱中していたのです。

マイナー競技のため学校数は多くありませんが、横須賀市では圧倒的1位、神奈川県でもベスト16の成績を残しました。そしてエスカレーター式に横須賀学院高校に入学するのです。

高校では野球部に戻るつもりでした。甲子園に行く夢は100%捨てていなかったのでしょう。私は既に高校野球部の練習に参加していた中学野球部時代の同級生S君を呼び出し、入部テストを依頼します。

テスト内容はストレート一球勝負。このストレートが野球界で通用するようなら野球部に入り、それが無理ならハンドボール部に入るつもりでした。一球入魂というわけです。

渾身の力を込めたストレートはS君のグローブはおろか、グランドのネットを越え、学校に隣接した公園にまで飛んでいきました。準備運動の大切さを思い知らされたわけです。

こうして少年誌以下のドラマを演じる私は甲子園の夢を諦め、ハンドボールを続けるに至りました。

相澤謙一郎の起業史 3[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 2[19歳 はじめての起業]の続きです。

当時の田舎の不良少年のマストアイテムと行動パターンは以下の通りです。

・改造制服
・タバコ
・凶器
・シンナー
・暴力
・不登校
・髪の染色
・群れる、座り込み
・改造自転車

などなどです。
私は上記の行為はおろか、成長の妨げになるという理由からタバコや炭酸飲料にも一切手をつけないような子供でした。

また短ラン、長ラン、ドカン、ボンタンなどと呼ばれる改造制服はファッションセンス的にノーでした。私は機能的である事、流行り廃りのないシンプルなデザインである事、耐久性に優れている事、この3点を重要視します。

改造制服はまず生地が悪質なため、三浦半島の海風に耐える術を知りません。スタイルも異形そのもので、先生や街中の不良少年に目を付けられるリスクも背負う事になるのです。

私はもしかしたら根っからのスポーツマンなのかもしれません。スポーツはルールを守る事ではじめて成立するものです。私はルール違反ができない性質なのです。ルール違反すれすれ、アウトラインギリギリの攻防、ネット越しの激しい闘争、こういったものがスポーツの醍醐味なのです。

反面、決まったルール以外の決め付けや習慣には人一倍抵抗し、思い切り反発するのです。それはグランドの中へ年功序列的考えを入れる事、試合後の待ち伏せ行為、試合中の威嚇行為だったりします。

まぁ鼻持ちならないクソガキといったところでしょうか。

そんな私ですが頼みの野球部が休部となり、選択を迫られます。次の部活を決めなくてはなりません。甲子園への夢を諦めていない私は地肩を鍛えるため強豪でもあったハンドボール部に転部します。恩師との出会いが待っていました。

相澤謙一郎の起業史 2[19歳 はじめての起業]

相澤謙一郎の起業史 1[19歳 はじめての起業]の続きです。

飲食店を開業しようとした動機は幾つかあります。

‥時、バーの経営者に憧れていた。
△金持ちになりたい。
酒が飲みたい。
い發討燭ぁ

そんなところだろうと思います。若かったので短絡的な動機でした。

動機について書く前に、多少、私の背景をご説明させて頂きます。

私は横須賀学院という私立のミッションスクールに小中高と12年間、エスカレーター式で通いました。祖父が横須賀学院と仕事を通じ縁があった事が理由らしいです。私の勘ぐりでは、息子を私立学校に通わせているという両親親戚の見栄もあったのではないでしょうか。

そんな小さな見栄が悲しくなるくらい決して頭のいい学校ではありません。しかしキリスト教の教えと、自由な校風は、私に多少なりとも影響を与えている事でしょう。

[横須賀学院]
http://www.yokosukagakuin.ac.jp/

走水という漁師町の実家から制服を着て、学校に通っていました。近所に自衛隊官舎などもあり、田舎にしては子供の数は多かったのではないでしょうか。近所の子供達に制服を着ている事を理由に馬鹿にされたりするのがひどく腹立たしく、ストレスでした。

[走水の実家]
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50264891.html

かたや学校では持ち前の浅知恵を発揮し、1学年1クラス20数名という狭い世界で権力掌握します。スポーツはサッカー、ソフトボール、野球などのクラブに所属し、抜群の活躍を残し、成績も良い方でした。学校では自信満々の子供でした。

しかし地元で所属していたサッカークラブでは、なんとか1軍に滑りこむ程度の実力でしたし、塾では中くらいの成績でした。この学校と学校外の極端な二重生活は、自分の実力を客観的にとらえる練習になりました。

「己を知り、敵を知れば百戦して危うからず」と言いますが、己を知るという事に関して、私は常に向き合わざるを得ない生活だったのかもしれません。私は臆病なくらい慎重で、石橋を叩いても渡らないような男です。私を知る人は「嘘つけ!」と言いますが、たまにお見せする無謀だったり横暴な言動は、いってみれば豪放磊落な人になってみたいなという変身願望の表れ、とちゃんと説明できるのです。

中学に進学すると新たに生徒が加わり、1学年1クラス20数名から1学年2クラス80名となります。中学においても浅知恵は冴え渡り、そこそこの権力と地位を確立します。それとともに担任からは要注意生徒と見なされるようになりました。

部活は野球部に入部します。野球が大好きで、壁当て(コンクリートなどの壁に向かって投球を繰り返す遊び)している時は至福の時間でした。桑田、斎藤、野茂などの真似をしたり、清原や原から三振を取るシュミレーションを何時間も繰り返してました。将来、プロ野球選手になったらピッチャーからバッターに転向し以下のような選手になろうとしてました。

打席:左打ちかスイッチヒッター
打率:2割8分〜3割の成績をコンスタントに残すアベレージヒッター
本塁打:8〜15本程度
打点:60〜80程度
盗塁:10前後

25歳にレギュラーを取り10年程度、現役で活躍できれば御の字です。プロ野球選手になれないまでも甲子園には出たいと考えていたので、野球部に入部したわけです。

しかし現実は厳しく、野球部はちょっとした不良少年の集まりで、何度目かの事件発覚後、休部扱いとなってしまいます。中学1年の終わりの頃です。

秋の新人戦があえなく最期の公式戦となりました。はじめてユニフォームを着る喜びに溢れていた私ですが、なぜか学校ジャージに背番号を縫い付けるというダサい姿で、簡単にコールド負けしました。下の下もいい所、最低最悪の成績です。顧問らは野球部を休部にする固い決意をユニフォームを作らせないという態度で示したわけです。

こんな経緯から私は田舎の不良少年が想像し得るだいたいの遊びと不良行為、そして教師達に対する反逆精神を身につけていったのです。

相澤謙一郎の起業史 1[19歳 はじめての起業]

EA松本副社長に触発されて起業史を書こうと思いました。

[松本拓也の起業史 1]
http://ameblo.jp/hatarakanai/entry-10026767838.html

私がはじめて起業したのは1996年4月末頃です。当時私は19歳でした。神奈川県横須賀市本町に6坪の物件を借りました。横須賀のドブ板通りの一本裏の路地に面した木造2階建ての2階です。

[横須賀ドブ板通り]
http://www.mixpink.com/spot_folder/yokosuka_folder/yokosuka.html

その通りはションベン横丁と言われたらしいです。飲み屋が立ち並ぶドブ板通りで酔っ払っいが、千鳥足よろしく路地に迷い込んで立小便をするスポットだったのでしょう。

ションベン横丁にも何件かの飲み屋があり、私が借りた物件の1階も「でこちゃん」というスナックでした。「でこちゃん」も6坪位の狭いスナックでしたが、60前後のママとその息子さんの生活を支えていたのですから、かなりの売上があったのでしょう。

「でこちゃん」のママの生い立ちは不明ですが、ドブ板のママらしいしゃがれた声でたまに2階にも遊びにきてくれるのです。とても優しい親子でした。

私が借りた物件も確か「富士」というスナックでした。荒れ果てた店内は、5人掛けの短いカウンターと4畳くらいのこあがりという内装でした。こあがりにはカーテンで閉ざされる仕掛けがあり、きっとママがここで寝てたのだろうと思いました。もしかしたら愛を語り合っていたかもしれません。

私はこの6坪の物件で、2ヵ月後に飲食店を開業する事になります。

最強サラリーマン

起業というカテゴリーを建て、また起業についてたまに書いていると、何だか起業を夢見る男っぽくて、少しむかつきます。

「起業するのが夢なんです。」「いつか自分の店を持ちたいんです。」素敵な夢ですが…

夢なんて、どうでもいいと思う時があります。
続きを読む

3年で売上16.4億円、経常3.5億円の新規事業計画書完成!

今日は一日中、デスクにはり付いて新規事業の計画書を書いている。

お客様や同僚から頂いた資料や、各社レップメディアシートや、各種代理店のホームページや、各種ぱど媒体を散らかしながら書き終えた…!

3年で売上16.4億円、経常3.5億円の新商品。(何の稟議もおりてないが)続きを読む

初代工楽松右衛門

我が国の帆布製造の始祖として知られる初代工楽松右衛門(くらくまつえもん)。

幼少の頃から改良や発明が好きで、船乗りになった後は、それまでの脆弱な帆布に改良を加え、従来より太い糸を撚る厚地大幅物の帆布の織り上げに成功。「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に普及、明治になるまで船乗りの安全な航海を助けた。

北海道の幸、鮭を新鮮なまま上方に輸送するため、調理方を工夫した新巻鮭と鮭が傷まないよう早船の海運ルートを作ったのも他ならぬ松右衛門である。

町人の生まれだった松右衛門はこれらの功績により「工夫を楽しむ」という意味の工楽の姓を与えれ、故郷の兵庫県高砂市(1743生れ)高砂神社の境内には銅像が建てられている。

松右衛門の言葉には、現代商人(企業家)も一見の価値があるので紹介します。

「人として天下の益ならん事を計ず、碌碌として一生を過ごさんは禽獣にもおとるべし。およそ其利を窮るに、などか発明せざらん事のあるべきやはと。金銭を費し工夫せられし事少なからず。」

最期に松右衛門の登場する小説をご紹介します。
菜の花の沖〈2〉

職業選択の自由

今日からブログに起業というカテゴリー(メニュー)を作ってみた。

近年、起業は一風変わった一匹狼的な人ではく、ごく一般のビジネスマンにも当たり前の選択肢になってきている。書籍やブログにも起業関連が多いから時流に乗ってみる事にした。

私は起業するとか、しないとか、そういう事にはあまり拘りが無い。
自分の行く道を進んでいくだけで、その結果として就職や転職や企業や倒産があるのだと思う。

あまり難しい事を考えないで職業選択の自由時代を謳歌する位の抜け抜けとした明るさを持つ事も起業のひとつの「コツ」だと思う。
月刊相澤謙一郎ブログ
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1.記載されている内容は、株式会社ぱど、ならびにぱど関連会社の考え方ではなく、あくまで相澤謙一郎の個人的見解によるものです。なお相澤謙一郎は2008年6月30日をもって株式会社ぱどを退職しております。

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