相澤謙一郎ブログ「22世紀にのこる ものつくりを志して!」

相澤謙一郎の理念  一、無から有を生みだす。 一、顧客の笑顔=商品の付加価値=利益 一、世のため人のためになる事をする。それ以外はしない。 一、変化を恐れない改革者であり続ける。 一、従業員はもとより、家族、親族、近隣住民を大切にし、彼等から信頼される企業となり、人となる。

歴史物

曽祖父の実弟、英成氏の「昭和天皇独白録」原本、高須院長が宮内庁に寄贈

曽祖父、寺崎太郎の実弟である寺崎英成氏の「昭和天皇独白録」の原本を高須院長が宮内庁に寄贈されました。高須院長のおかげで英成さんの仕事を後世に遺すことができそうです。高須院長、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。

寺崎太郎、英成さんの志を受け継ぎ、無能ではありますが、少しでも世のため人のためになれるような人間になりたいと思います。

■昭和天皇独白録を受領 高須院長が寄贈
https://mainichi.jp/articles/20180529/k00/00m/040/036000c

■「昭和天皇独白録」原本、高須院長が宮内庁に寄贈
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180529-00000004-jnn-soci

■宮内庁が文書受け入れ 高須氏落札の昭和天皇独白録
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31054610Y8A520C1CR8000/

■高須院長NYで落札「昭和天皇独白録」宮内庁受領へ
https://www.nikkansports.com/general/news/201805280000693.html

■昭和天皇独白録を落札した高須克弥氏 「国の宝を取り返さないといけない」と理由を語る
https://www.sankei.com/life/news/171207/lif1712070032-n1.html

■寺崎太郎
http://aizawa.livedoor.biz/archives/23291977.html

泣いて馬謖を斬る

流行の事業で、且つ、まだ競業のいないネタを見つけたが、いわゆる「選択と集中」というやつで一時、お蔵入りさせることにした。「泣いて馬謖を斬る」心持ちであるが、ここは本業一本に集中すべき時と判断。

蜀(蜀漢)の武将・馬謖が、街亭の戦いで諸葛亮の指示に背いて敗戦を招いた。この責任をとり馬謖は処刑されることになるが、愛弟子の馬謖の処刑に踏み切るにあたり諸葛亮は涙を流した。後に蒋琬から「馬謖ほどの有能な将を」と彼を惜しむ意見もあったが、諸葛亮は「軍律の遵守が最優先」と再び涙を流しながら答えたという。出典『三国志』「蜀書馬良伝」

今日は何の日 戦時下のアメリカ人妻−グエン寺崎が亡くなった日

本日放送の日テレ「おもいッきりいいテレビ」の今日は何の日にて、「戦時下のアメリカ人妻−グエン寺崎が亡くなった日」が放映されました。

グエン寺崎さんは、母方の曽祖父寺崎太郎の実弟寺崎英成の夫妻にあたります。続きを読む

武田二十四将

先日、結婚式で甲府を訪れた際、晩酌用に「武田二十四将」という酒を買いました。

武田とは勿論、甲斐武田家第19代当主武田信玄のことであり、武田二十四将は信玄に仕えた家臣団の中でも特段秀でた武将達のことを指します。
武田二十四将

風林火山の軍旗のもと、戦国最強と評される精強な武田騎馬軍を率いて甲斐の虎と恐れられた武田信玄を支える名将達です。

何時の日か武田二十四将に勝るとも劣らない精鋭を率い、混迷を極める世界市場を席巻するような企業をつくれれば痛快そのものです。続きを読む

天下三分の計

赤坂でグレンフィディックを呑みながら戦略を思い巡らしました。

中国駐在効果でしょうか?

孔明の「天下三分の計は?」という声が聞こえたような聞こえなかったような。

まずは益州を獲り、然る後に決戦を挑むべし。

益州にあたるブルーオーシャンは何処?

孔明の戦略は、現代のブルーオーシャン戦略、ランチェスター戦略に通じるものがあります。さすが丞相!

足利義昭と織田信長

1573年5月8日に室町幕府の最後の将軍・足利義昭と対立中だった時の権力者・織田信長が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命で和睦したと言われています。

しかしながら義昭が7月に再度挙兵した際には、信長に捕らえられ、京を追われ河内(大阪府の東部)に追放されてしまいます。これにより、足利尊氏が創設した室町幕府は滅亡しました。

足利義昭は小説や歴史物ゲームにおいて、今川氏真や一条兼定と並び戦国の暗君として扱われる事があります。しかしながら、大規模な信長包囲網を形成、討伐令を下し、一時は信長を窮地に陥れています。

信長包囲網には一向宗を統べる本願寺顕如、精強な武田騎馬軍を率いる甲斐の虎・武田信玄、同盟関係にあった浅井長政(妻は信長の妹・市)、剣豪将軍と称された実兄・義輝を暗殺した梟雄・松永久秀と三好三人衆らが加わっています。

各勢力の思惑があったのは当然ですが、これだけの大物、曲者をまとめた政治的手腕はただ者ではないと思います。当時、3万の強兵を率いて上洛の最中であった武田信玄が53歳で没していなければ、歴史は変わり、後世の足利義昭の評価と室町幕府の歴史も変わっていたかもしれません。

歴史に「もしも」はありませんが、空想は我々の想像力を刺激して止みません。

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殉死 乃木希典

明治時代、長州閥の陸軍軍人、乃木希典とその婦人静子が先帝、明治天皇を追い殉死するまでの姿を書いた司馬遼太郎の「殉死」。

日露戦争においては、第3軍司令官として堅城、旅順要塞を攻略した英雄として「軍神」、「聖将」とまつりあげられた。しかし司馬遼太郎「坂の上の雲」により軍事的才能は否定的に書かれ、むしろ児玉源太郎の戦術能力が高く評価されていた。私自信、同書を読み、そのような認識を覚えずにはいられない。

後世の評価においては諸説あるが、事実として乃木夫妻の殉死は日本中はおろか世界中に広がり、中世的とも言える劇的な死は、ある人々には感動を与えたという。

「殉死」を通じ、乃木希典の軍人、武士としての生き様も「坂の上の雲」とあわせ一読される事を著者の司馬遼太郎も願っているかもしれない。二児を日露戦争中で喪った乃木夫妻の気持ちも多いに察するものがある。
近代日本人の肖像

徳川信康と徳姫

徳川信康(松平信康)は徳川家康の嫡男で、1563年3月25日(永禄6年)、織田信長の娘、徳姫と婚約したと云われています。

信康の母は家康の正室の築山殿ですから、家康の跡継ぎとして将来を嘱望され育ちました。しかし、武田家との内通の疑いで実母、築山殿もろとも実父、家康の命令で処断されてしまいます。何とも惨い話です。

発端は、姑の築山殿と折り合いが甚だ悪かった徳姫(築山殿は武田家と縁が深い今川家の出自)が、信長に築山殿と武田家の内通疑惑を訴えたと云われており、これを由とするわけが無い信長が、家康に築山殿とその子、信康の処刑を要求したのです。

天下布武事業成立目前の織田家と同盟関係にあった家康は、この同盟を破綻させるわけにはゆかず、妻と嫡男を処断する決意をしたのです。

この挿話には諸説ございますが、「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰(ほととぎす)」と評された織田信長、「鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰」と評された徳川家康の性質を表しているかもしれません。

私が家康の立場であれば、城を枕に討ち死に覚悟といった所でしょうが、「耐えがたきに耐え」る忍耐力も天下人には必要なのでしょう。

信康の妻、徳姫は1636年まで永らえ、天寿を全うしています。

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呂蒙子明

呂蒙は中国後漢末(三国志の時代)の人物で、君主である孫策、孫権に仕えた呉の将軍です。蜀漢の関羽が守護する荊州を奪還し、関羽父子を討った事で知られる将軍です。

関羽は主君、劉備に対する忠義心や、「美髯公」と称された威風堂々たる風貌、一万騎に値すると云われた武勇にまつわる伝説も数知れず、まさに名将を超え、神格化された人物です。現在では商売の神として信仰され(算盤を発明したとも言われている)、世界中の中華街に関帝廟が建立されています。

義を貫いた関羽の生き様は、損得勘定や目先の儲けに移ろいがちな私達に多くの教えを説いています。無論、尊敬する武将の一人です。

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<関帝廟>
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その関羽を討った呂蒙ですから、三国志関連の創作物では悪人扱いされる事もあり、実際に呂蒙を嫌う方もいると聞いています。事実、小説などでは、関羽に呪い殺されたり、体中の穴と言う穴から血を噴出して絶命したと書かれている事もあります。

数々の三国志関連小説で、呂蒙をどのように扱うかは私の注目材料でもあります。

関羽を討った事だけが注視されがちな呂蒙ですが、彼の生き様はまさに男の中の男であり、名将と呼ばれるに相応しいと尊敬して止みません。

呂蒙は十代の頃より孫策に仕え、その武勇で功を重ね、孫策を継いだ孫権の代には重職に就くに至ります。以下の挿話は呉書に詳しいとの事ですが要約致します。

ある日、君主の孫権が武勇を誇る部下の呂蒙とショウ欽に学問を薦めます。他の重臣等から呂蒙等は武辺一辺倒の者で重職を任せるべきでない、という批判があったのかもしれません。事実、「呉の城下の阿蒙」と言う不名誉なあだ名がありました。

呂蒙は、「忙しいので本を読めるか不安です」と答えました。私が「忙しくて中国語の学習が進んでいません」と言う事にも似た、完全なる言い訳です。そして私自身、このような言い訳を其処彼処で耳にします。

きっと孫権は心を傷めたかもしれませんが、彼等をよくよく諭します。

1.経典や歴史書を暗唱し、学者になれと言っているわけではない。過去の事を知ってもらいたいのである。

2.時間が無いと言うが、君主(経営者)である私より時間が無いのだろうか。私は兄、孫策を継いで君主になった後は、三史や諸家の兵書を読み、とても参考になったと実感している。

3.呂蒙とショウ欽には素質があり、何より固い意思をもっているから、学習すると決意すれば必ずや身に付くはずなのに、それをしない理由があるだろうか。

4.何を学習したら良いか分からないなら、まず「孫子」「六韜」「左伝」「国語」「三史」を読みなさい。

5.孔子も「ひねもす食わず、よもすがら寝ずに思いを馳せても無益である。学ぶに越したことはない。」と仰っている。光武帝は戦争中でも書物を手放さなかった。曹操(同時代の君主)は年老いてから学問を好むようになったと言っている。なぜあなた達は学習しなくていいのか。

君主として、現代の経営にも通じる名言です。部下の心を溶かし、自分で実践して模範となり、部下の個性と才能を見抜き、やるべき事の方法を詳しく説き、具体例を挙げながら将来目指すべき方向を示唆しています。

呂蒙とショウ欽は学習する事を決意しました。そして孫権から受けた手厚い指導、いわば主君への恩を返すべく学習を進め、名将と呼ばれる将軍に成長するのです。

話はそれますが、以前、私は飲食店で仕事をしていました。その際、先輩から「120%満足頂ける仕事をしなさい」と教えられました。

お客様が100のサービスを求めていたら、120のサービスを提供する事で一見さんがもう一度お店に来て頂けるようになる。前回の120のサービスは、既にそのお客様には100になっている。だから更に20%増しのサービスをする。3度目にお店に足を運んで頂いた時は、そのお客様は常連さんとして扱う。港町の酒場のルールのようなもので、お客様もよくよくそれを知っているものです。

私は常々、こういう商売や生き方をしたいと考えています。

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<相澤謙一郎の起業史 12[19歳 はじめての起業]>
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さて学習に励み、武辺一辺倒の猛将から、知友兼備の名将と賞賛されるようになった呂蒙ですが、ある日、孫権軍の都督(軍隊を統括する将軍)であり、呂蒙の先輩でもある魯粛が「あなたは武勇だけでなく、知識もある。今となっては呉の城下の阿蒙とは呼べませんな」と呂蒙の肩を叩きながら話しました。

魯粛には、どこかで呂蒙をまだ認めていない節があったのかもしれません。

呂蒙は即座に答えます。
「武将(男)たる者は、別れて三日が経過すれば、よくよく目をこらして気持ちを新たに向き合うべきなのです。あなたが仰った事は、ぼんやりしていて自分の周辺に起ころうとしている事が分からなかった秦の穣公と同じではありませんか。」

以下、私なりの呂蒙の言葉の解釈です。

男たるもの一度別れれば、切磋琢磨し、次に出会う時はお互い如何に成長したのか、しっかりと見定めるものです。それがわずか三日であろうが同じ事です。私はいつもそのような心持ちでいますし、これは君主、孫権公からの教えでもあります。孫権軍の将軍であるあなたがそれでいいのでしょうか。

ましてや先輩であるあなたは、後輩ではあるものの、ライバルでもある私の事を心の底で侮ってはいませんでしたか。私はあなたに侮られるような男ではありません。(今日、このようにあなたに言ったからには)私は今後も必ず努力を続けます。

そのような痛烈な言葉と私は受け取っています。

そして呂蒙は続け様に、孫権軍との国境、荊州を守護する名将、関羽が孫権軍にとって脅威である事を説き、関羽を破る策略を魯粛に授けます。魯粛は感銘し、呂蒙を真の武将と認め、兄弟の契りを交わして別れました。

呂蒙が男なら、後輩から痛罵されながらも、それが忠言であると見抜き、またそれを認めた魯粛も男です。また呂蒙がかねてより、魯粛を兄のように敬慕していたからこその忠言で、魯粛はそれに値する多くの軍功を上げている名将でもあったのです。

後年、魯粛没後、呂蒙は後任として孫権軍の都督となり、関羽を討った事は前述の通りです。

そして二つの故事成語が生まれました。

「呉下の阿蒙」:学問の無い人間や、いつまでも進歩しない人間。
「士、別れて三日、刮目してあい待すべし
(士、別れて三日なれば即ち更に刮目して相待つ)」:
事態の変化を常に敏感にとらえ、いつまでも同じ先入観で(相手を)見てはならない。

現代にも通じる名言です。
私は何時からか、この言葉を座右の銘とするようになりました。将来、私の考え方は変わるかもしれませんが、忘れてはならない言葉です。

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<年賀のご挨拶>
http://aizawa.livedoor.biz/archives/50350225.html

数年前から書きたかった事を、やっと書く事ができました。まだまだ呉下の阿蒙です。

これを亡地に投じてしかる後に存せしめ、これを死地に陥れてしかる後に生かす

年末年始の休暇を利用して、海音寺潮五郎「孫子」を読み返しています。

漢初の常勝将軍、韓信が井ケイ口の合戦で趙軍を殲滅した陣法は、「これを亡地に投じてしかる後に存せしめ、これを死地に陥れてしかる後に生かす」という孫子九地篇の兵法を応用したものと言われています。

数世紀を経た三国志時代には、川を背にして陣をつくり敵を迎え討つ戦法「背水の陣」として、曹操、徐晃、姜維らが実戦に活用しています。

戦わずして勝つ事が最上の戦さ上手ですが、時に避けられない戦さもある事でしょう。そんな時の兵法防備録まで。「これを亡地に投じてしかる後に存せしめ、これを死地に陥れてしかる後に生かす」

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<彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず>
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武田信玄と上杉鷹山

NHK大河ドラマ「風林火山」もクライマックス間近です。歴史愛好家の想像通り綴られた印象のある原作と、ドラマの山本勘助はややイメージが異なりましたが、年を帯びるに連れ勘助らしい異形に迫力が増してきました。

ドラマでは精強な武田騎馬軍を率いる甲斐の虎、武田信玄と、戦国最強とも謳われる越後の龍、上杉謙信が川中島の決戦前夜を迎えます。ドラマを見ながら、後世の歴史を知る我々ならではの楽しみを見つけました。武田信玄と上杉謙信の子孫、上杉鷹山(非血縁)の遺した言葉に共通項があります。

武田信玄曰く「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」
上杉鷹山曰く「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」

私の想像ですが、武田信玄の言葉には百戦錬磨の将軍の姿、上杉鷹山の言葉には青年藩主の若々しくも厳しい決意が伺えます。時間が許せば、ドラマの最期を見届けたいです。

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<上杉謙信公の命日に。>
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<上杉鷹山の人間管理の原則>
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近代日本人の肖像

「歴史は繰り返される」と言いますが、対象となる事柄を知らなければ何のことか分からないという事になります。少しずつ頭の中に歴史DBを蓄えていきたいと思っています。そのためには、まず興味を持つ事、そして復習が大切です。

国立国家図書館が運営する「近代日本人の肖像」というホームページが、復習や新たな発見に役立っています。「カオ」は特定の部位の意味と、象徴という意味があります。外見で人は判断できませんが、歴史上の人物のカオを見ながら、彼等の行動や判断を追い、見比べるのも一興です。
近代日本人の肖像

あなたは戦国武将で言うと誰?

あなたは戦国武将で言うと誰?下記サイトで診断できます。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazu1110/busyou.html

因みに私の診断結果は、「三本の矢」のたとえ話で知られる毛利元就公でした。毛利氏最盛期を築き、中国地方を制覇した戦国の名将です。無論、そんな力は私にはありませんが、毛利元就公にあやかり、常々健康に留意し天寿をまっとうしたいものです。
毛利元就〈1〉 (山岡荘八歴史文庫)


診断内容は、続きを読む

ぱど研修マニュアル

ぱどの新入社員向け研修マニュアルについて担当者にヒアリング。現場のマネージャーとして、どのような研修を経て社員が配属されているのか詳細を把握したかった。

一言で言うとマニュアルは非常によくできている。私が入社した8年前はマニュアルなど無かったくらいだ。問題は研修で学んだ内容を、現場に慣れてくるにつれて実践できていない社員がいる事。

反復練習や基礎練習はスポーツでも営業の現場でも大事。明日の朝礼では、「基本に忠実に。」「初心を忘れずに。」とメッセージする。

太田道灌状 国の不幸

関東管領、扇谷上杉家の重臣として主君を支え、主君に斬られた悲運の名称、太田道灌。当代随一の兵法家として名高く、また江戸城築城など城下町整備にも功績があります。
続きを読む

生麦事件と有村俊斎

144年前の今日、今の横浜市鶴見区生麦で生麦事件が発生。薩摩藩の大名行列(実際は藩主の父、島津久光の行列)を乗馬のまま横切り、乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士奈良原喜左衛門、有村俊斎らが殺傷した事件(死亡1名負傷2名)。

この事件が契機となり、翌年、薩英戦争が勃発する。この砲撃戦の結果は幕府にとっては皮肉なもので、薩摩藩の肩代わりで講和金を支払った挙句、後に薩摩藩と英国は蜜月の間柄となり、倒幕の気炎を上げるのである。続きを読む

観音寺潮五郎 孫子

倉橋社長に薦められて読んでいる最中の観音寺潮五郎「孫子」。恥ずかしながら孫子物は三国志になどに出てくる幾つかの兵法を知っているだけで、実際に読むのは始めてだった。なので物語や孫武(孫子)の軍略はもとより登場人物の生き様も新鮮で、私にとって新しい出会いだった。暫く孫子の兵法に漬かる。
孫子
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川路大警視邸跡

1e9bfacf.jpg有給休暇を頂き免許の更新のため、雨の中、下谷警察署まで歩く。初のゴールド免許取得。今後も安全運転第一。午後から少し仕事。

下谷警察署の脇に川路大警視邸跡の碑を見つけた。愛書「翔ぶが如く」の冒頭に登場する事実上の警視庁創設者、川路利良の邸跡である。翔ぶが如く〈1〉
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柳生石舟斎

四百年前の今日(1606年5月25日)、柳生新陰流の祖、柳生宗厳(むねよし)こと柳生石舟斎、没。

新陰流の祖、剣聖上泉信綱より新陰流を継承した剣豪という側面と、柳生の荘の領主という政治家の側面を持つ戦国時代の人。
柳生石舟斎
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豊臣秀頼と徳川家康の会見

遡ること400年ほど昔の1611年5月10日(慶長16年)は、豊臣秀頼が徳川家康の招きに応じて上洛し、二条城で家康と会見した日と言われております。

目の黒い内に、何としても磐石の徳川政権を築きたい家康の目の上のタンコブは、紛れも無く豊臣家であり、前の天下人秀吉の後継者、秀頼だったのは言うまでもありません。
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鳥羽城址

鳥羽城址早朝、戦国時代に海賊大名の異名をとった九鬼嘉隆の居城、鳥羽城址まで散策。

信長、秀吉と時の天下人の水軍を指揮し小大名まで立身出世した九鬼嘉隆は、最新鋭の鉄鋼船団を率い精強毛利水軍を木津川沖で打ち破った事で知られる。続きを読む

上杉謙信公の命日に。

本日、四月十九日は戦国最強の武将の一人で、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた上杉謙信(1578年)、その二人の養子、上杉景虎(1579年)、上杉景勝(1623年)の命日と言われております。

上杉謙信は、軍神とも言われる兵法で武田騎馬軍団を散々に打ち破った事で知られます。晩年は、その信玄も没し、当時一大勢力に成長した織田軍団と互角の戦闘ができる数少ない精鋭を率いていました。
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功名が辻 山内一豊の武断政治

大河ドラマで放映中の「功名が辻」で俄かに名を知られた山内一豊。
功名が辻 (前編)

約400年前の今日、正確には1601年4月3日、関ヶ原の戦功で、秀吉幕下の小大名から土佐一国の大名に出世した山内一豊は、桂浜で相撲興行を行い、観衆の中の長宗我部家遺臣を捕らえ、種崎で磔にし処断した。続きを読む

横山光輝 三国志事典

ブログネタ
武士の歴史365日 に参加中!
横山光輝の大作漫画「三国志」と言えば、三国志ファンであれば誰もが知っていて、多少なりとも目にとめた事もあるだろう。

しかしながら60巻に及ぶ大作のため、全巻を所有している方、もしくは読破した方となると、存外少ないのかもしれない。私も床屋、飲食店、図書館など様々なシーンで、横山光輝「三国志」を読んできたが、未だ通読した試しは無い。

そのような方にお勧めなのが「横山光輝 三国志事典」だ。続きを読む

徳姫と阿茶局の命日

今日は、織田信長の長女で、徳川家康の嫡男信康(後に信長の命令により、切腹)の正室、徳姫(1636年2月16日没。)と徳川家康の側室、阿茶局(あちゃのつぼね、1637年2月16日没)の命日です。

現代の女性は強いと言われますが、波乱に満ちた数奇な人生を歩んだ二人の女性を振り返ると、今も昔も女性は逞しいようです。
ふたりの信康とふたりの徳姫

清水宗治

清水宗治墓戦国時代、主君毛利家に忠誠を誓い、命を掛けて秀吉に戦いを挑んだ勇敢な武将、清水宗治。

2003年、私は秀吉の水攻めで有名な備中高松城址見聞の旅に出た。(写真は墓。)

その旅で、改めて清水宗治という武士(もののふ)の颯爽とした生き様に感動した。

浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して
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倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉を耳にするが、正しい故事成語は「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」である。

まず前述の「衣食足りて礼節を知る」という言葉は、最近では否定的な意見が多く、飽食の時代となり逆に礼儀、節度を失っているのでは、と言われている。
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初代工楽松右衛門

我が国の帆布製造の始祖として知られる初代工楽松右衛門(くらくまつえもん)。

幼少の頃から改良や発明が好きで、船乗りになった後は、それまでの脆弱な帆布に改良を加え、従来より太い糸を撚る厚地大幅物の帆布の織り上げに成功。「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に普及、明治になるまで船乗りの安全な航海を助けた。

北海道の幸、鮭を新鮮なまま上方に輸送するため、調理方を工夫した新巻鮭と鮭が傷まないよう早船の海運ルートを作ったのも他ならぬ松右衛門である。

町人の生まれだった松右衛門はこれらの功績により「工夫を楽しむ」という意味の工楽の姓を与えれ、故郷の兵庫県高砂市(1743生れ)高砂神社の境内には銅像が建てられている。

松右衛門の言葉には、現代商人(企業家)も一見の価値があるので紹介します。

「人として天下の益ならん事を計ず、碌碌として一生を過ごさんは禽獣にもおとるべし。およそ其利を窮るに、などか発明せざらん事のあるべきやはと。金銭を費し工夫せられし事少なからず。」

最期に松右衛門の登場する小説をご紹介します。
菜の花の沖〈2〉

一緒に酒を飲みたい三国志の英雄

株式会社サーチナが中国の消費者に対して、一緒に酒を飲みたい三国志の英雄を聞いたところ張飛と答えた方が全体の30%に上ったとの事。

張飛と酒席を共にするのは、酒飲みとしては光栄且つ夢のような話だが、サシ飲みだったら単純に喜べるかどうか…私の度量では恐れ多い所だ。

泥酔した張飛を諫める自信も無ければ、張飛に誘われて断る度胸も無い。まさに八方塞がり。

孔明や周瑜ならどう対処するか相談したい位だ。

ちなみに次点は孔明と関羽で15%程の得票を得たとの事。

張飛が一位になるのは中国のお国柄からか?日本ならどんな順位になるか楽しみ。

関帝廟

関帝廟.jpgぱどグループは横浜を創業の地としているだけあり、長いお付き合いをさせて頂いている横浜中華街に新企画の構想を練りに行く。

帰り際、久しぶりに関帝廟に立ち寄る。歴史にその武名を残し、神様となった三国志の英傑、関羽将軍を祭る廟である。
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総選挙について 稀代の役者小泉純一郎

自民党の圧勝に終わった衆院総選挙。

小泉さんは私の故郷横須賀の神奈川11区から出馬。197,037票を獲得し、次点の斎藤氏に4倍近くの差をつけ当選した。

以前にも書いたが、地元横須賀では小泉フィーバーという現象は、今回も見られなかったと思う。逆に言えば対抗馬がいない選挙区で、次点以下の候補者と小泉さんとでは役者が違うと言う訳だ。

私の観点では、この現象が全国区に広がったとも見ている。小泉さんと岡田さんでは役者が違うという訳だ。岡田さんには災難な選挙だったかもしれない。小泉さんは一流の政治家かどうか知らないが、稀代の役者ではあると思う。

日本史で言えば、徳川家康と石田光成、三国志でいえば諸葛亮孔明と周瑜公謹のように。歴史に名を残すか否か、これから手腕が問われるのだ。
徳川家康〈18 関ケ原の巻〉
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1.記載されている内容は、株式会社ぱど、ならびにぱど関連会社の考え方ではなく、あくまで相澤謙一郎の個人的見解によるものです。なお相澤謙一郎は2008年6月30日をもって株式会社ぱどを退職しております。

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