平岡円四郎は、文政5年生まれ、徳川家旗本平岡家養子。嘉永6年に慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)の近侍となる。文久3年、現代で言う派遣スタッフという形で直参の家臣を持たない一橋家用人に。

慶喜の股肱の臣と評された。
元治元年家老並となったが、皮肉にも慶喜を徳川家の謀叛人とみる慶喜の出身藩である水戸藩士に暗殺される。(慶喜は水戸の烈公斉昭の七男)一説には同じく慶喜の謀臣であった原市之進の不覚な讒言によるとも言われる。

御行の松.jpg円四郎は江戸奉公時代、私の住まいの近所である台東区根岸御行の松辺りに住居を構えていた事もあり、僭越ながら親しみを覚える。

円四郎の功績と言われるのが、当時は高崎城乗っ取り計画を企んでいた過激攘夷家で後に大実業家となる渋沢栄一を慶喜に引き合わせた事。円四郎の計らいで栄一は慶喜の家来に取り上げられ、その縁あって新政府の要職に就くようにもなるのだ。円四郎の死を悼んだ慶喜は、「平岡はわしの身代わりになった」とこの青年期からの股肱の臣の死に涙を流したと言われる。

円四郎が斬られた翌日、慶喜の屋敷につるされていた古歌がある。

「世の中は不昧因果の小車や よしあしともにめぐり果てぬる」

最後の将軍の股肱の生き様を垣間見れる一冊を紹介したい。
最後の将軍―徳川慶喜