神奈川新聞.jpg母方の曾祖父、寺崎太郎の記事が本日の神奈川新聞に掲載。

この国の座標
憲法誕生とその時代

吉田外相に弟を推薦 宮内省御用掛

外科医の叔父、平から原爆の話を聞いたのは終戦後間もなくだったとマリコ・テラサキ・ミラーは記憶している。一家は東京に戻っていた。
1945年8月6日、原爆投下直後の広島に平は医師団の一人として入った。平の話にはぞっとしたが、むしろ父、寺崎英成のうつろな表情の方が子供心に焼き付いた。
寺崎は慢性的な高血圧のため外務省を休職、脳出血で倒れる。日米開戦への自責の念が心身をむしばんだ。
昭和天皇への大統領親電工作に協力したスタンリー・ジョーンズの「あなたは最善を尽くした」という手紙を、寺崎は擦り切れるまで財布に入れ持ち歩いていた。

「奇妙な偶然ですが…上の兄弟二人が懸命に防ごうとした戦争の結果を末の弟が見たんです。」とマリコは言う。
その名前は開戦前夜、在来日本大使館と外務省との間の電話で日米交渉での米側反応を示す暗号に使われた。マリコが「元気」なら良好、逆は「病気」になった。
発案したのは、寺崎の兄で当時外務省アメリカ局長の太郎だった。「けんか太郎」と呼ばれ。日独伊三国同盟を推進した外相松岡洋右が日米交渉の中身をドイツに内報すると言い出した時には「ヒトラーと取引でもしたんですか」と食ってかかった。
「枢軸派」全盛の外務省で対米開戦反対の声を上げ、41年10月の東条英機内閣発足とともに辞職。戦後は外務次官に抜てきされたが、首相吉田茂と衝突して、また外務省を飛び出す。
戦前に枢軸派にべったりだった官僚が戦後、幹部になることに嫌悪感隠さなかったという。
太郎は傷心の弟を気遣い「週数度の出勤で済むなら」と宮内省御用掛を探していた当時外相の吉田に推薦。寺崎は46年1月「陛下のスポークスマンとなり、全力を尽くしてくれ」との吉田の伝言を太郎から受け取る。
天皇に信頼された寺崎は、健康も顧みず天皇の戦争責任回避に全身全霊を傾けた。太郎の胸中は複雑だったようだ。
外務次官を辞めた跡に外交評論の冊子を発行した太郎は天皇の「統帥権」が軍部暴走の要因と論じる中で、元首相近衛文麿の手記から開戦前夜の部分を引用している。
「(東久邇宮)殿下は平価が批評家のようなことを仰せられるのは如何でありましょう…と申し上げたと承っている」
寺崎の死後、太郎は知人にこう漏らしている。
「宮内庁が殺したようなもんだ」(敬称略)

写真下:アメリカ局長に就任時の寺崎太郎氏。後年、知人に「英米シンパと言うが、おれは日本派だよ」と語ったという =1940年、外務省

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