ペリー来航前後の幕末、伊達家宇和島城下に嘉蔵という町人がいた。

幼少、天然痘を患い、顔面が醜かったため「馬糞の嘉蔵」などと蔑まれていた。付け加えて甲斐性も無く、驚くほどの貧乏だから女房にも一年ほどで愛想を尽かされ、別段何の面白みの無いような四十男だったが、才の種は誰にでもあるもので、手先の器用さにかけては及ぶ者がいなかった。

それしか才が無かったから、提灯細工屋をはじめ、細々と食をつないでいたが、幕末の回天はこんな町民にも奇跡的な天命を与えた。

ペリー来航に触発された賢候の誉れ高い宇和島藩主伊達宗城候の鶴の一声で、藩をあげて蒸気機関船を造船する事になった。勿論、藩にそんな技術は無く、何の因果か手先が起用と評判の嘉蔵にその命が下る。

提灯細工屋から蒸気機関船技師への転業だ。

絵に描いたような滅茶苦茶な話であるが、兎も角馬糞は奮発したのだ。

宇和島藩のお抱えだった村田蔵六が船体制作係、嘉蔵が蒸気機関係となり、山あり谷あり、野を超え山を越え、7年で蒸気機関船をつくりあげてしまったから、驚嘆という他ない。

村田蔵六は後に郷里長州に帰藩し、幕府軍を徹底的に叩き潰す稀代の軍師となり、維新後は軍政を切り盛りし、大村益次郎として名を残す。

嘉蔵は前原喜市と改名し、一町民から下士に取り立てられる奇跡的な出世を遂げる。

一発逆転の気運は誰にだってある、毟り取ってやる気分もどこかに持っていたい。


大村益次郎―軍事の天才といわれた男