大河ドラマで放映中の「功名が辻」で俄かに名を知られた山内一豊。
功名が辻 (前編)

約400年前の今日、正確には1601年4月3日、関ヶ原の戦功で、秀吉幕下の小大名から土佐一国の大名に出世した山内一豊は、桂浜で相撲興行を行い、観衆の中の長宗我部家遺臣を捕らえ、種崎で磔にし処断した。
土佐の大名といえば、土佐の出来人と名高い長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)である。子の盛親の代、関ヶ原の合戦で戦況を左右し得る土佐の強兵六千を率いながら、西軍に組しながら一歩も動かず、戦う事無く負け、蟄居の身となる。
このあたりは、司馬遼太郎「戦雲の夢」に詳しい。
戦雲の夢

つまり長曾我部元親の子、盛親に替わって土佐の大名になったのが山内一豊なのだ。まさに関ヶ原で明暗を分けた大名二人である。

山内一豊が着任した土佐は、四国を制覇した長曾我部党の故郷であり、関ヶ原で何の戦働きもしていない無傷の強兵六千が、遺臣として残っていたわけだ。

現代で言えば、敵対的買収に敗れた企業のトップ交代劇のようなもので、新経営陣と旧来の社員の関係と同様、融和、調和には神経質にならざるを得ない状況である。

ここで山内一豊の大名として、経営トップとして手腕が問われるのである。

彼は非常にシンプルな決断をした。

経営陣には旧領又は、新規召抱えの家臣団を用い、長宗我部家遺臣には徹底的な武断措置政策を敷いた。

強兵で知られる長宗我部家遺臣は、当然、これに猛反発し、土佐各地で一揆、反乱を起すも、負けじと山内一豊の武断政治は頑なになっていく。

そしてその武断措置の極みと言える惨劇が起きる。相撲興行を装い、武勇に五月蝿い長宗我部家遺臣をおびき寄せるように桂浜に誘導し、浦戸一揆に関与したと云われる73名を捕え、種崎で磔に処してしまう。

これらの武断措置により、山内家臣と長宗我部家遺臣の確執は決定的なものとなり、長宗我部家遺臣への武断政治は幕末まで脈々と受け継がれる。

歴史の妙と言うのは、これである。

後に長曾我部家の遺臣は旧太守の盛親を擁し、大阪夏の陣にて関ヶ原の一戦の恥を拭うべく立ち上がるが、散々に打ち滅ぼされ、家名は終焉を迎える。

しかしながら、土佐に残った土佐郷士と呼ばれる長曾我部家遺臣は、山内家家臣団に屈辱的な差別を受けながらも幕末、再び立ち上がり、武市半平太、坂本竜馬、中岡慎太郎などの人物を輩出し、徳川幕府を終焉させる大きなエネルギー源となるのである。

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