本日、四月十九日は戦国最強の武将の一人で、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた上杉謙信(1578年)、その二人の養子、上杉景虎(1579年)、上杉景勝(1623年)の命日と言われております。

上杉謙信は、軍神とも言われる兵法で武田騎馬軍団を散々に打ち破った事で知られます。晩年は、その信玄も没し、当時一大勢力に成長した織田軍団と互角の戦闘ができる数少ない精鋭を率いていました。
謙信の死因は、多量の飲酒がたたっての脳溢血と言われておりますが、確かな事は謙信の死によって、信長の天下布武事業が決定的となった事です。それほどの将器と兵法、政治に優れた大名だったのです。そして現代と全く変わらないのが、カリスマ経営者(大名)の後継者問題です。

上杉家も二人の養子が、御館の乱と呼ばれる骨肉の後継者争いを起します。その当事者が北条氏康の七男、景虎と謙信の姉・仙桃院の子、景勝の二人の養子です。
上杉三郎景虎
上杉景勝―越後の雄としての誇りに生きた名将

上杉家を二分するお家騒動となりましたが、北条氏という強力な保護者を持つ景虎に対し、直江兼続という稀有な才能を持つ補佐役を得た景勝が、景虎を孤軍に追い込み、最終的には自刃させるのです。

景勝は勝利し家督を継いだものの、謙信の指揮の下、精強を誇った上杉軍団は勢力を弱め、前述の通り、漁夫の利を得た信長が天下第一の勢力となり、次々と有力大名を滅ぼしていくのです。

その後、景勝は郷里の越後から会津に移封されるも、偉大な父の威光もあってか、時の天下人、豊臣秀吉の憶え目出度く五大老の一人に列せられます。しかし、程なく秀吉が没すると、五大老筆頭の家康と対立し、関ヶ原の合戦を引き起こすも敗北し、出羽米沢30万石に減封となり、その地で没します。

複雑な勢力関係と、血縁関係で結ばれた三人の上杉父子の生き様は、現代における企業間抗争、資本関係、企業買収にも似た要素を含んでおり、歴史から学ぶ事の多さをつくづく感じます。

戦国時代同様、今日も様々な謀略、奇策が飛び交い、梟雄、魑魅魍魎の類も見え隠れ致しますが、何にしても正道、人の道を踏み外す事無く、商売に精進する事が肝心だと思います。
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上杉謙信