遡ること400年ほど昔の1611年5月10日(慶長16年)は、豊臣秀頼が徳川家康の招きに応じて上洛し、二条城で家康と会見した日と言われております。

目の黒い内に、何としても磐石の徳川政権を築きたい家康の目の上のタンコブは、紛れも無く豊臣家であり、前の天下人秀吉の後継者、秀頼だったのは言うまでもありません。
秀頼の母、淀殿は我が子の安否を危惧し、断固反対の姿勢をとり続けていましたが、時の権力者は家康であり、このまま強行拒否を続ければ豊臣家の存続に関わる事を理解していた豊臣恩顧の諸大名の説得により、この会見が実現したのです。

ことに加藤清正と浅野幸長の豊臣子飼いの二諸侯の働きは際立ったと言われます。私は池波正太郎「真田太平記」のくだりが好きで、特に加藤清正公の威風堂々たる秀頼の守護者たる姿には感動させられます。

築城の名人、加藤清正が築いた熊本城は、後年の西南戦争で桐野利秋等率いる薩軍の侵攻に対し想像以上の防御力を発揮するのですが、築城時から徳川方との決戦も視野に入れた戦うための城を築いたのではないかと思うのです。
加藤清正―太閤の夢に殉ず

「真田太平記」ではこの会見時に暗愚と思われてた秀頼が、思いの外の将器を家康に印象付けたので、家康は秀頼を討つ事を決意したとされますが、いずれにせよ豊臣側と徳川側の争いは避けられなかったでしょう。

歴史にたらればは無いのですが、大阪の役以前に没した加藤清正、浅野幸長、池田輝政ら豊臣恩顧の諸大名と、福島正則が加勢した豊臣軍と徳川軍との決戦が実現したならば、日本の歴史にも影響を及ぼした事でしょう。さて勝敗は如何様に?
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