相澤謙一郎の起業史 4[19歳 はじめての起業]の続きです。

私の高校生活は順風満帆なスタートではありません。不安と絶望に悩まされました。

不安は1学年2クラス80人という少人数制から、1学年11クラス400名のマンモス高になった事です。持ち前の浅知恵で権力と地位を得てきた私ですが、400人のなかで這い上がり(どこに?)、生き残る(何のため?)術を知りませんでした。

絶望は大学に行けないかもという事でした。横須賀学院高校は進学校ではないので、有名大学はおろか進学率さへ高くないのです。プロ野球選手への夢から醒め、現実家となった私は「学歴へのコンプレックスを一生背負うのか、俺は…」と小さな脳で絶望していたのです。当時、大学という機関を過大評価していたのでしょう。

そんな私でしたがすぐに光明が差してきました。指定校推薦制度という仕組みを知り、四年生大学に特別な方法で入学する手段を知ったのです。さぁ浅知恵はフル回転です。

条件はある一定の評定平均(成績の平均値)を得る事、公私共々優秀な生徒である事。評定平均は上位生徒が優先されるので学内でもトップクラスの成績をおさめるを事が求められます。優秀な生徒の指標は、部活動と生徒会などの活動と判断しました。

優秀な生徒には自信がありました。中学時代、担任に目を付けられていたにも関わらず、一度も停学・謹慎などを受けなかった事、牛乳パックの再利用運動を通じ生徒会会長をしていた経験があったからです。さしづめ見せかけ、ハッタリの領域を出ませんが。

問題は学業です。しかもハンドボール部の練習や合宿は激しく厳しく、まとまった休みは正月の三日間だけなのです。血と汗と涙にまみれ、擦り傷、捻挫の耐えない、学業では時に狡猾なまでに暗記を繰り返す高校生活となるのです。