相澤謙一郎の起業史 11[19歳 はじめての起業]の続きです。
私のキャンパスライフは新鮮で、驚きに溢れたスタートでした。そして自分の無知や知識の無さを思い知らされるのです。
大学は東京にあるものだと思っていましたが、明治学院大学法学部の校舎は横浜市戸塚区の山の中腹に位置していました。またフレンドリーな方が多い事にも驚きました。特にサークルの勧誘、勧誘飲み会では初対面なのに、下の名前で呼び合うのです。極めつけは、横須賀学院出身という事だけで頭が悪いと先入観を持たれた事です。
私の人格や背景を何一つ知らない方々との出会いは、驚きと新鮮さの連続で、高校時代のような怒りや憤りは感じませんでした。
部活は体育会のハンドボール部に体験入部しました。ハンドボール部は人間関係で問題を起こしそうだと思ったので、入部を諦めました。先輩方はほとんど初心者でしたが、やはり先輩としての威厳がありますから、私のような言う事を聞かない男は存在してはいけないと思ったのです。
キャンパスライフへの憧れや高揚は2、3日で冷めてしまいました。
自然とカクテルバーのアルバイトとバンド活動に傾向していくのです。
昼間、必修の授業だけ出席し、17時〜翌朝5時までアルバイト。バンドのリハーサルがある時は、22時くらいからアルバイトに行きました。そんな毎日でした。
時給800円とはいえ、長時間労働だった事、お金をほとんど使う時間が無かった事もあり、開業資金は着々と貯まっていきました。
またカクテルバーでは、水商売の基本を学ぶ事ができました。掃除、料理や賄いの仕込み、在庫確認、発注、バーテンダーの基礎知識、話法、営業、そしてお客様より学ぶ事も少なくありません。
鶏の唐揚げの仕込みは思い出深いものがあります。包丁で鶏肉の油という油、筋という筋を全て取り除いてから特性のタレに漬け込むのですが、一度始まると2〜3時間は終わりません。この仕込みはつらいのですが、お客様の「お肉柔らかい!」「おいしい!」の一言で苦労は報われました。生意気にもいっぱしの水商売人ですね。
営業に関しては、毎日街頭でビラを配ったり、極めつけはキャバクラにも営業をかけました。多少の成果もあって、お店は水商売の女性のアフターで賑わいました。
また店を盛り上げるためライブイベントの企画をはじめます。バンドのブッキング、フライヤー作成、機材搬入、進行管理、そして出演までこなしました。
様々な経験を積む事により、開業への意欲は強くなるばかりです。ハンドボールで鍛えた機動力を発揮し、2人のパートナーと物件候補を見つけます。パートナーは師匠とも言うべきChaosのマスターとChaosのお客さんの一人でした。
そして1996年3月頃、お世話になったカクテルバーでのアルバイトを辞めます。
勝負に出る事に決めたのです。私は19歳になっていました。
私のキャンパスライフは新鮮で、驚きに溢れたスタートでした。そして自分の無知や知識の無さを思い知らされるのです。
大学は東京にあるものだと思っていましたが、明治学院大学法学部の校舎は横浜市戸塚区の山の中腹に位置していました。またフレンドリーな方が多い事にも驚きました。特にサークルの勧誘、勧誘飲み会では初対面なのに、下の名前で呼び合うのです。極めつけは、横須賀学院出身という事だけで頭が悪いと先入観を持たれた事です。
私の人格や背景を何一つ知らない方々との出会いは、驚きと新鮮さの連続で、高校時代のような怒りや憤りは感じませんでした。
部活は体育会のハンドボール部に体験入部しました。ハンドボール部は人間関係で問題を起こしそうだと思ったので、入部を諦めました。先輩方はほとんど初心者でしたが、やはり先輩としての威厳がありますから、私のような言う事を聞かない男は存在してはいけないと思ったのです。
キャンパスライフへの憧れや高揚は2、3日で冷めてしまいました。
自然とカクテルバーのアルバイトとバンド活動に傾向していくのです。
昼間、必修の授業だけ出席し、17時〜翌朝5時までアルバイト。バンドのリハーサルがある時は、22時くらいからアルバイトに行きました。そんな毎日でした。
時給800円とはいえ、長時間労働だった事、お金をほとんど使う時間が無かった事もあり、開業資金は着々と貯まっていきました。
またカクテルバーでは、水商売の基本を学ぶ事ができました。掃除、料理や賄いの仕込み、在庫確認、発注、バーテンダーの基礎知識、話法、営業、そしてお客様より学ぶ事も少なくありません。
鶏の唐揚げの仕込みは思い出深いものがあります。包丁で鶏肉の油という油、筋という筋を全て取り除いてから特性のタレに漬け込むのですが、一度始まると2〜3時間は終わりません。この仕込みはつらいのですが、お客様の「お肉柔らかい!」「おいしい!」の一言で苦労は報われました。生意気にもいっぱしの水商売人ですね。
営業に関しては、毎日街頭でビラを配ったり、極めつけはキャバクラにも営業をかけました。多少の成果もあって、お店は水商売の女性のアフターで賑わいました。
また店を盛り上げるためライブイベントの企画をはじめます。バンドのブッキング、フライヤー作成、機材搬入、進行管理、そして出演までこなしました。
様々な経験を積む事により、開業への意欲は強くなるばかりです。ハンドボールで鍛えた機動力を発揮し、2人のパートナーと物件候補を見つけます。パートナーは師匠とも言うべきChaosのマスターとChaosのお客さんの一人でした。
そして1996年3月頃、お世話になったカクテルバーでのアルバイトを辞めます。
勝負に出る事に決めたのです。私は19歳になっていました。