相澤謙一郎ブログ「22世紀にのこる ものつくりを志して!」

相澤謙一郎の理念  一、無から有を生みだす。 一、顧客の笑顔=商品の付加価値=利益 一、世のため人のためになる事をする。それ以外はしない。 一、変化を恐れない改革者であり続ける。 一、従業員はもとより、家族、親族、近隣住民を大切にし、彼等から信頼される企業となり、人となる。

歴史物

火消しの頭領 浅野内匠頭

消火風景雨交じりの天候の中、出勤しようとすると近所で火事があったらしく、消防車、消防員の方が消火活動後の現場検証をしていた。

江戸の火消しで思い出したのが、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩だ。正確には彼の祖父、浅野長直が大名火消しとして名高かったのが事実。

しかし後の人々は浅野家といえば大名火消しの頭領という事で、吉良邸討ち入り時の赤穂浪士に火事装束を装わせたが、これは史実でなはいのだ。

歴史というのは、人々の印象で大きく変わる。そして、その物語があたかも史実のように人々の記憶に受け継がれるのである。

大石内蔵助の生涯―真説・忠臣蔵

完璧の使者

完璧=パーフェクト、100%というイメージであるが故事を辿ると一概にそうは言えない。

完璧とは中国戦国時代(紀元前280年代)の趙の名外交官、リン・ショウジョの故事から成る言葉だ。

時の大国、秦国の圧迫を受けていた趙国は、趙が持つ天下の名宝「和氏(かし)の壁」と秦の城、15城を交換したいと提案される。しかし秦王、昭王はそもそも城を譲渡すつもりはなく、「和氏の壁」を手に入れれば約束を破棄し、「和氏の壁」を渡さなければ趙に全面戦争をしかける腹であった。

この危急存亡のピンチに立ち上がったのが、リン・ショウジョだ。彼はこの難しい外交を趙王、恵文王に一任される。

リン・ショウジョは「和氏の壁」を昭王に一度は渡すが、昭王の腹の底を見抜くと「壁には瑕がございます。教えましょう。」と壁と取り戻すや否や、柱に走ると、それを背にして、怒髪を逆立て、昭王の陰謀に凄まじい罵声を浴びせ、「和氏の壁」ごと自らの頭とともに砕こうとした。

「和氏の壁」を砕かれては元も子もない昭王は、非礼を詫び、城の譲渡を再度、確約するが、外交中、密かにリン・ショウジョは国許に「和氏の壁」を戻してしまう。

今度は、昭王との約定を破ったリン・ショウジョであったが、昭王にかつて秦が一度たりとも約定を守った事がない事、国力の差を持って不当な外交をする非礼を切々と説く。しかしながら、昭王との約定を破った非礼は自らにあるとして、釜茹での刑を懇願する。

リン・ショウジョの覚悟に感服したのか、彼を誅殺する無益を悟ったのか、昭王は彼に手厚くもてなし帰国させる。

このエピソードから「和氏の壁」は「連城の壁」とも呼ばれ、また趙ではリン・ショウジョのこの功を称えて彼を「完璧の使者」と呼ぶようになった。
今日の完璧の由来である。

冒頭の戻るが、完璧とはパーフェクト、100%を結果として達成したという事で、そもそもは死を賭しても目標を達成するという覚悟、志を指すのである。

広告営業マンとして、社を代表して広告主様と商談する訳だから「完璧の使者」を目指したい!

司馬遷―史記の世界

蒲生氏郷公の墓前にて

先日より夏季の休暇を頂き、蒲生氏郷公や幕末の動乱期の資料見聞などを目的に会津の旅に出た。氏郷は時の右大臣、織田信長の憶えも目出度く、才覚もあったから、彼の息女を嫁にもらったほどで、云わば信長の譜代大名、織田家の後見人の一人として期待された戦国大名だった。


期せずして本能寺で信長が暗殺された後は、後継者の権利も会った彼も、瞬く間に天下人となった太閤秀吉に従属したのである。太閤も氏郷の才覚と血統を恐れたのか、大阪から離れた北の探題として移封し、その地を納めさせる。独眼流正宗の脅威や、反乱の絶えない北の地の政治に苦慮し早死にしたとか、石田三成、直江兼続に暗殺されたとも言う。

いずれにせよ、その才覚の大いに発揮する事なく、僅かながらこの地に城郭を築き、若くして逝去した。必ずしも大往生とは言えなかったのではあるまいか。
蒲生氏郷公之墓.jpg蒲生氏郷公.jpg続きを読む

雑賀孫市の軍略

戦国は紀州の豪族、雑賀党の領袖、雑賀孫市。戦国期の鉄砲用兵集団としても知られる雑賀党の棟梁だ。
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前原喜市と村田蔵六

ペリー来航前後の幕末、伊達家宇和島城下に嘉蔵という町人がいた。

幼少、天然痘を患い、顔面が醜かったため「馬糞の嘉蔵」などと蔑まれていた。付け加えて甲斐性も無く、驚くほどの貧乏だから女房にも一年ほどで愛想を尽かされ、別段何の面白みの無いような四十男だったが、才の種は誰にでもあるもので、手先の器用さにかけては及ぶ者がいなかった。

それしか才が無かったから、提灯細工屋をはじめ、細々と食をつないでいたが、幕末の回天はこんな町民にも奇跡的な天命を与えた。

ペリー来航に触発された賢候の誉れ高い宇和島藩主伊達宗城候の鶴の一声で、藩をあげて蒸気機関船を造船する事になった。勿論、藩にそんな技術は無く、何の因果か手先が起用と評判の嘉蔵にその命が下る。

提灯細工屋から蒸気機関船技師への転業だ。

絵に描いたような滅茶苦茶な話であるが、兎も角馬糞は奮発したのだ。

宇和島藩のお抱えだった村田蔵六が船体制作係、嘉蔵が蒸気機関係となり、山あり谷あり、野を超え山を越え、7年で蒸気機関船をつくりあげてしまったから、驚嘆という他ない。

村田蔵六は後に郷里長州に帰藩し、幕府軍を徹底的に叩き潰す稀代の軍師となり、維新後は軍政を切り盛りし、大村益次郎として名を残す。

嘉蔵は前原喜市と改名し、一町民から下士に取り立てられる奇跡的な出世を遂げる。

一発逆転の気運は誰にだってある、毟り取ってやる気分もどこかに持っていたい。


大村益次郎―軍事の天才といわれた男

鯨海酔侯 山内容堂

本日は都内のお客様オフィスに直行。
打ち合わせ、昼食後、山手線を北上し、別件での打ち合わせ。

久しぶりに夏らしい暑気。
久しぶりに昨晩は酒を飲まなかったので、汗をかいた分、今晩のビールは旨そうだ。

酒と言えば、一昨日あたりから読み始めた司馬遼太郎「酔って候」は、日本史きっての酒豪大名山内容堂を描いた作品。土佐海の鯨の如く酒を呑んでは酔う大名という事だろう、自ら鯨海酔侯を名乗った土佐藩最期の大名。

勿論、私の如き唯の酒飲みではないから、歴史に名が残る。幕末は島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城等と並び天下の四賢候と呼ばれ、歴史、詩吟、武芸百般に秀でた殿様だった。

幕末に土佐藩は武市半平太、坂本竜馬、中岡慎太郎等多くの人物を輩出したが、容堂は彼等、旧土佐国主の長曾我部家侍を中心とする郷士連中を忌み嫌い、彼等に弾圧を加えたので(武市等は切腹)、ある筋からは評判が悪いかもしれない。

しかしながら、酒を飲まずには本音を言えない性質で、飲み過ぎが祟り腹痛、歯痛に苦しみ、紛らわすためまた酒を飲む。維新後は薩長に政権を掠められた上、大名の座も奪われ、失意の中、酒に溺れて逝ったのではないか。明治五年四十六歳の若さであった。

ストレス社会の現代、酔い潰れる老若男女をお見受けするが、自我を失うような飲み方は避けるよう注意しなくてはならない。

酔って候<新装版>

赤報隊相楽総三

ロンドンにおける同時テロ報道が毎日報道されている折、赤報隊(日本におけるテロリストと呼ばれる団体がしばし借用している)相楽総三という男を思い出した。
「赤報隊」の正体―朝日新聞阪神支局襲撃事件

幕末、江戸幕府崩壊前夜、薩摩藩の密命を受けて江戸市中擾乱の首謀者となったのが相楽総三だ。

上方の公家勢力を背景に、幕府と交戦直前だった薩摩藩の西郷隆盛、大久保一蔵は幕府を挑発し、戦争へと仕向けるため、江戸擾乱を画策、勤皇志士相楽総三、伊牟田尚平、益満休之助に密命を与えた。

相楽らは薩摩三田邸を根拠地として、そこに市中を徘徊する浪人等約500人を集め、来るべき擾乱ゲリラ戦に備えた。しかし、浪人隊には給金等が無かったため、生きるために市中で辻斬り、強盗などの悪行を尽くし、市中の治安悪化という西郷らの企図通りに事は運んでいく。

契機付いた浪士隊は、いよいよ江戸を中心に三方から脅かそうとするゲリラ戦に出撃する。しかしながらそこは所詮、寄せ集めの浪士隊、各藩士に迎撃、殲滅される。
国際問題にもなっていた浪士隊の暗躍、悪行に業を煮やした幕府は、その根拠地が薩摩三田邸である事を突き詰め、討ち入りを決行。相楽等は血路を開いて薩摩の運送船に逃げ込み、命からがら京都の西郷の所に逃げ帰ったのだ。

俗に言う薩摩藩三田邸焼討事件が鳥羽伏見の戦いの呼び水となってしまう。幕臣勝海舟らの鎮静論を無視して、軽率に挑発に乗った幕府はまさに薩摩の術中にはまったのである。この焼き討ちを契機に強硬派の幕臣は勢いづき、もはやこれを将軍慶喜も止めると事ができないまま、鳥羽伏見の開戦、敗戦、そして大政奉還に繋がっていくのである。続きを読む

戦雲の夢

通勤中の読書は貴重な情報収集の時間でもあるが、私は歴史小説を読む事で趣味の歴史散策の時間に充てている。

今朝は司馬遼太郎「戦雲の夢」を読んできた。

土佐の出来人と名高い戦国武将、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)の世子、盛親(もりちか)の半生を綴った歴史小説である。

盛親は偉大な父の死後、土佐守として土佐22万石の太守となるが、関ヶ原の一戦で、石田三成方の西軍に組しながら戦場では一歩も動かず、結局戦う事無く負けた。

土佐の強兵六千を縦横無尽に動かせば、僅差で徳川方の東軍が勝ちを収めた勝敗をひっくり返せたかもしれず、逆に東軍に寝返れば、東軍の勝利に大きな貢献をしたとして後の改易、蟄居は免れただろう。

五十年の人生に、人は、たった一瞬だけ、身を裂くほどの思いをもって決断すべき日がある。盛親の場合、その一瞬を見送った。

とある。今朝読んだ項にあったこの節は、経営にも同様の事が言える場面が必ずあるのではと若輩者ながら感じた。

歴史の妙はここから始まる。後に長曾我部家の遺臣は旧太守の盛親を擁し、大阪夏の陣にて関ヶ原の一戦の恥を拭うべく立ち上がるが、散々に打ち滅ぼされ、家名は終焉を迎える。
しかしながら、土佐に残った土佐郷士と呼ばれる長曾我部家の残党が幕末、再度立ち上がり、徳川幕府を終焉させる大きなエネルギーとなるのである。


戦雲の夢


豊臣家の人々

豊臣家の縁者達の運命を、各人毎に簡潔かつ短編風に描いた司馬遼太郎の力作「豊臣家の人々」。
水呑み百姓の家に生まれながら、日本史上、類稀な立身街道を突き進み、果ては人臣最高位の関白にまで登りつめたのが豊臣秀吉である。その栄達とともにその彼の縁者達も異常とも言える運命に巻き込まれていく。

その中にあって唯一、秀吉の期待に応えたのは彼の実弟であり、豊臣政権の補佐役、言わばナンバー2の豊臣秀長だけであった。その他は悉く、臆病もしくは矮小なありふれた一般人であり、政権を担うに足る人材は一人もいなかった。太閤秀吉が貧農の家に生まれ、歴史に燦然と残る天才的な才覚を得たのは、遺伝子結合の奇跡としか言いようがないと思われる。

日本社会は未だに政官民ともに世襲制度風の文化が根強い。この国の文化とはそういうものなのだろうか、時代は変わっても親が子を思う心は変わらないという事なのだろうか。世襲制の成否は、出生率1.2%台の日本が考えるべき重要事項の一つである。

関連書籍

豊臣家の人々


豊臣秀長―ある補佐役の生涯〈上〉


豊臣秀長―ある補佐役の生涯〈下〉

寺崎太郎

神奈川新聞.jpg母方の曾祖父、寺崎太郎の記事が本日の神奈川新聞に掲載。

この国の座標
憲法誕生とその時代

吉田外相に弟を推薦 宮内省御用掛

外科医の叔父、平から原爆の話を聞いたのは終戦後間もなくだったとマリコ・テラサキ・ミラーは記憶している。一家は東京に戻っていた。
1945年8月6日、原爆投下直後の広島に平は医師団の一人として入った。平の話にはぞっとしたが、むしろ父、寺崎英成のうつろな表情の方が子供心に焼き付いた。
寺崎は慢性的な高血圧のため外務省を休職、脳出血で倒れる。日米開戦への自責の念が心身をむしばんだ。
昭和天皇への大統領親電工作に協力したスタンリー・ジョーンズの「あなたは最善を尽くした」という手紙を、寺崎は擦り切れるまで財布に入れ持ち歩いていた。

「奇妙な偶然ですが…上の兄弟二人が懸命に防ごうとした戦争の結果を末の弟が見たんです。」とマリコは言う。
その名前は開戦前夜、在来日本大使館と外務省との間の電話で日米交渉での米側反応を示す暗号に使われた。マリコが「元気」なら良好、逆は「病気」になった。
発案したのは、寺崎の兄で当時外務省アメリカ局長の太郎だった。「けんか太郎」と呼ばれ。日独伊三国同盟を推進した外相松岡洋右が日米交渉の中身をドイツに内報すると言い出した時には「ヒトラーと取引でもしたんですか」と食ってかかった。
「枢軸派」全盛の外務省で対米開戦反対の声を上げ、41年10月の東条英機内閣発足とともに辞職。戦後は外務次官に抜てきされたが、首相吉田茂と衝突して、また外務省を飛び出す。続きを読む

後家鞘の彦六

刀身と反りの合わない鞘や、刀身と鞘を別々のものを一つにしたものを後家鞘(ごけざや)という。

幕末、宇和島藩脱藩で後家鞘の彦六と呼ばれた剣客がいた。小身の侍の六男に生まれ、程なく養子に出されるが事情あって転々と家を出され、行きついた入夫先の中村家では女房に死なれ、その後脱藩。

養家と彦六との反りの合わない風を持って後家鞘と言われたとか、生家から持ち出した刀身を養家で見つけた古鞘に、鞘の中を削り無理に押し込めていたから後家鞘と言われたなどの話がある。

諸事ありこの男、海援隊副長陸奥陽之助が、隊長坂本竜馬暗殺の復讐のための紀州藩三浦休五郎暗殺討ち入りに参加し、その類稀な居合術を披見している。

世に言う天満屋討ち入り事件だ。続きを読む

平岡円四郎

平岡円四郎は、文政5年生まれ、徳川家旗本平岡家養子。嘉永6年に慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)の近侍となる。文久3年、現代で言う派遣スタッフという形で直参の家臣を持たない一橋家用人に。

慶喜の股肱の臣と評された。続きを読む

桐野利秋

今朝は町田営業所に研修のため出勤。維新後の中村半次郎改め、桐野利秋を描いた「人斬り半次郎 賊将編」を読みながらの通勤。剽悍かつ勇敢な薩摩隼人の典型ともいうべき桐野利秋関連の書籍は、「翔ぶが如く」、「人斬り半次郎 幕末編」、短編「賊将」などを読み、私個人としては数年来の桐野ファンである。
続きを読む

上杉鷹山

私の埼玉営業所勤務時の後輩に米沢、興譲館高校出身の猛者がいる。何が猛者かは、ここでは控えさせて頂く。

ご存知、興譲館高校は越後の龍と恐れられた軍神、上杉謙信の養子、景勝を藩祖とする米沢上杉家藩主上杉鷹山が人材育成、後継者育成のために建てた教育機関である(1776年)。
続きを読む

御行の松

2005-0409-1254.jpg江戸時代から根岸の大松と親しまれる名松。(根岸四丁目)現在は三代目。「薄緑お行の松は霞みけり」根岸に居した正岡子規の短歌が残っている。司馬遼太郎著「坂の上の雲」の舞台にもなる子規が暮らした子規庵が根岸ニ丁目に現存している。根岸は当小説が好きな方に、おすすめの散歩スポットだ。

覇王の家

司馬遼太郎の「覇王の家」という歴史小説を読んでいる。
今まで読んだ司馬作品と比べると、心沸き立つ項や庶民的な娯楽性に欠ける作品との印象を受ける。これは主人公が、中世武士風な律義者の三河武士棟梁、徳川家康の性格によるところが大きい。織田信長のような天才的な先駆性・行動力、豊臣秀吉のような痛快な成り上がり物語、そういったカリスマ性が家康には少ないのだ。

しかし観点を家康の立場に変えて読むと、私には勉強になる。歴史小説を読むと、つい感情移入してしまうのだが、自分個人が信長や秀吉には成れない部分がほとんどなのに対し、家康の思考はもっとも納得がいくのである。近日、注目されている経営者には、家康的な律儀さ、泥臭さ、老獪さが目立たない。(もしくは見せないか、忘れたか…)これは時代の流れなのだが、私の中では、家康的な律儀、質素倹約、模倣、慎重さなども、大切にしていきたい。

覇王の家続きを読む
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1.記載されている内容は、株式会社ぱど、ならびにぱど関連会社の考え方ではなく、あくまで相澤謙一郎の個人的見解によるものです。なお相澤謙一郎は2008年6月30日をもって株式会社ぱどを退職しております。

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